山肌が色を変える。
湖水のほとりで、狼の頭を膝に乗せ、佇んでいたカガリが立ち上がった。
「…夜明けだ。」
切なく囁いたその声に、狼も東のしらみ始めた空を見遣った。
見上げていた視線を落とし、カガリは寂しげに微笑む。
山と山の重なり合う、その間に… 日が昇り始める。
その刹那。
カガリの身体が、溶ける淡雪のように変容を始めた。
白く、細やかな腕に白色の羽毛が生え、次第に鳥の形へと…
それに合わせたように、アスランもまた姿を変え始める。
狼の体を覆っていた黒毛が消え去り、逞しい青年の身体へと変化していく。
眩い光。
太陽が、大地を照らす。
暁。
ふたりにとっては、その一瞬が、互いの姿を臨める、刹那の刻だった。
「…ア、…スラ …ン」
カガリの唇が、消え行く姿で言葉を紡ぐ。
最愛の、男の名を口にした唇が、猛禽の嘴へと変わる。
「カガリ!カガリッ!!カガリッーーーッ!!」
縋る、アスランの手先は、空を切る。
もがくように、大気をかく、彼の手先。
だが、その手は、彼女に届くことはない。
血の滲む叫びをあげ、アスランはカガリを追った。
互いの距離は、狭まることはない。
「カガリッ!!」
身が引き千切られるほどの痛みが、ふたりを苛む。
どんなに叫んでも、どんなに請うても、届かない。
大空に羽ばたいていく鷹を見上げながら、アスランはその場に立ち尽くす。
脱力した身体。
アスランは、崩れるように大地に両膝を落とした。
「…っ、あああーーーーッ!!」
怒りを伴った拳を振り上げ、大地に叩きつける。
蹲った四肢は、悔恨に震えた。
振り下ろした拳を開き、彼は地の土を強く握った。
土塊を握り締め、引き摺った指先。
大地に刻まれる指の溝の痕は、彼の今の心情を素直に示す。
もう、こんな風に彼女と別れるのは、たくさんだ、という、…思い。
一体、いつになれば自分たちはこの呪縛から解き放たれるというのだろうか。
身体を丸めるように蹲り、アスランは震え、嗚咽する。
止め処もなく、彼の頬に涙が零れた。
「…アスラン様。」
聞き慣れた少年の声に、アスランの身体が動きを止める。
俯いたままの、主の裸身をマントが覆う。
ニコルが、アスランに羽織らせたマントは、暖かく彼を包んだ。
ゆるりと顔をあげ、立ち上がったアスランの顔は、いつもと変わらない表情。
だが、先ほどまで泣き崩れていたせいか、その瞳は僅かに赤い。
「…すまない。情けない処を見せてしまったな」
呟くように漏れたアスランの声。
ニコルは静かに首を振った。
「服をお召しください。そのままでは風邪をひいてしまいます」
アスランの衣類を手渡し、ニコルは微笑む。
「ああ。」
考え、アスランは湖水を見遣った。
「折角だ。このまま水浴する」
躊躇った風情もなく、アスランは羽織ったマントを脱ぎ捨て水のなかへ入っていく。
それを見計らったかのように、鷹へと姿を変えたカガリが、湖水傍の樹木の枝に
羽ばたき止った。
アスランの顔が柔和に綻ぶ。
「これから水浴びするから、見ないでくれないか?」
《ピィ!?》
昨夜とは逆。
カガリが、アスランに云った言葉をそっくり返され、鷹はやや驚いた鳴き声を放った。
が、直ぐに理解したのか、軽く止まった太枝でジャンプしながら背を向ける。
バシャン、と水飛沫が跳ねた瞬間、アスランは岸から離れ、湖の沖へと泳いでいった。
その音源が耳に届いた瞬間、鷹が首だけを反し、湖水で水浴を楽しむ彼を見遣った。
鷹が止まっている樹木の足元にニコルが歩み寄る。
「おはようございます、カガリ様」
《ピィ!》
返事を返すように鷹が鳴く。
暫しの水浴を堪能したアスランが岸にあがってくると、鷹はまた背を向けた。
アスランは、何事もなかったような姿態で、服を身につけ始めた。
着替えを終わらせ、愛馬に跨る。
自分の腕に鷹を呼び寄せ、いつもと変わらぬ一日が始まる。
乗馬する馬の歩みを進めようとした刹那、ニコルが一通の封筒をアスランに手渡した。
「カガリ様から預かりました」
「そうか。」
微笑み、アスランは素直に礼の言葉を口にする。
鷹を空に放ち、アスランは封筒を開封した。
綴られていた文面は、日中、鷹の姿でいるカガリが空から見た現状が書かれていた。
貧困に苦しむ民人の姿。
荒れていく、土地の現状。
加えて、長の戦のせいで疲弊した国情を。
それに重ね、重税に喘ぐ、人々の声。
国王は、民の声に耳を塞ぎ、政を放棄している。
それを操っているのが、デュランダルである、という記述。
この窮状をどうにかしないと国は滅びる、というカガリからの警告が切々と書かれていた。
そして、手紙の末尾に差し掛かったとき、アスランの眉根が緩く寄る。
「…西へ行け?」
疑問の顔色を浮かべ、アスランは空を旋回している鷹を見遣る。
アスランの呟きに、ニコルが馬を並べながら口を開いた。
「ここ何日か、通過する村々で話を色々聞きました。」
アスランは、顔をニコルに向け、じっと視線を外さず見詰めた。
「西の地の森に、ラクスという名の白魔術を繰る魔女が住んでいると聞きました。
恐らく、カガリ様は、その魔女に会えとおっしゃっているのではないのでしょうか?」
「西… か。」
翠の双眸を上空の澄んだ空に向け、アスランは呟く。
「わかったよ、カガリ。 …では、針路を西に。ニコルも情報収集ご苦労だったな。」
主の微笑みを見遣って、ニコルもまた笑んだ。
愛馬の腹を蹴る。
馬の走る速度をギャロップで保ち、アスランは愛馬ジャスティスを駆った。
目的の地。
西へと馬を進めるなかで、訪れる村々の様子に、アスランは瞠目する。
自分たちが今まで通ってきた、道々の在りようとの違いに。
余りの格差に、驚きを隠せない。
デュランダルが本拠地として在位する、北は問題外に荒れようは半端なく
酷いものだ。
他の地域も大差なく、現状は酷似している。
だが、西に近づけば近づくほど、考えていたよりも多い緑と人々の豊かな
生活観が、アスランの内に疑問を生んだ。
そして、知った事実。
西の地を治めているのは、女領主。
名をラミアスと云う。
噂に聞くその姿は、大変美しい女性とのことだった。
西の地を治める、かの領主は知己に富、なによりも民人を慈しんだ。
その器量だけでなく、西の地には、白魔女、ラクスの結界と保護が存在した。
領主、ラミアスが治める地域には、悪意を持った種の人間は進入することができない、
ということ。
もし、そのような気持ちがあれば、幾日も、否、永久にというべきか。
道を彷徨う羽目になる。
砂漠に時折現れる、蜃気楼のように、辿り着くべき村が見えながら、目的地には
到着できないという不可解な現象に遭遇するらしい。
そんな噂が、馬を駆るなかでちらほらと耳に入ってくる。
アスランは、その話が耳に届くたび、苦笑を浮かべた。
「問題なく、西に向かえるということは、俺たちは少しは歓迎されているのかな?」
僅かな皮肉を漏らせば、従者の少年は、緩く微笑む。
道中、寄った町は、活気に満ち、商人たちの往来も忙しく、豊かさの象徴のようにも思える。
水があれば、ひとが集まってくる。
ひとが集まれば、交易が発生する。
それは、人々の豊かさにも直結するのだ。
理解ある領主は、民の声を聞き、生活の安寧を約束する。
かの地を治める女領主と、土地の守護を司る、白魔女。
益々持って、その事実を見たときから、アスランのうちのなかで、「合ってみたい」と
思う気持ちが膨れ始めていた。
道行く民のひとりを呼び止め、アスランは、西の魔女の居場所を聞き尋ねる。
誰もが知っていることなのか、尋ねられた問いには、みな素直に返事を返してくれた。
「…西の森?」
「ああ、そうだ。」
「ここからそう遠くはないさ。町を抜けて街道沿いをまっすぐ行けばいい」
大きな麻袋を背に担いだ男が指を指しながら道を指し示した。
礼を述べ、アスランはニコルを伴って馬を駆る。
ここに辿り着くまで、丸五日の道程。
急いた気持ちは、拍車がかかる一方だ。
教えられたまま、アスランは西の森を目指した。
森の入り口に差し掛かると、アスランは自分のもとに鷹を呼び寄せた。
「ニコル」
「はい?なんでしょうか?」
「ここからは、俺とカガリだけで行く。お前はここで俺たちの帰りを待っていてもらえないか?」
「わかりました。お気をつけて行ってらしてください。」
アスランの愛馬を託され、ニコルは主人である彼を送り出す。
森というのであれば、暗いイメージが付き纏うもの。
しかし、この森は普通の感覚とはどこかなにかが違った。
まず、その違いを肌で感じる。
澄んだ空気。
邪気のない、清々しさ。
そして、仄かに明るい、明度を感じる。
辺りを見渡しながら、アスランはゆっくりと深部に向かって歩を進める。
数分歩んだ処で、彼は歩みを止めた。
視界の先、佇んでいたのは、見事な角を持った牡鹿だった。
牡鹿は、ふたりを待っていた姿態で頭を前後に振った。
《おふたりをお待ちしていました》
ひとの言葉を話す鹿に、アスランは驚いて瞳を開く。
弾みで、一歩踏み出した瞬間、アスランの腕に止まっていた鷹が苦痛の声をあげ、転がり落ちた。
「カガリ!?」
慌て、手を差し伸べた刹那、日中は『呪』に縛られているはずの彼女の姿が人型に戻り始める。
信じられない現象を目の当たりにし、アスランは戸惑った。
《今、踏み出した場所からは、ラクスの結界内です。ラクスの魔力が覆うこの森には、邪悪な
呪文は全てが無効。効力は発動しません》
独特の瞳色を持つ、鹿の紫水晶の瞳が笑んだ気がした。
アスランは、見る間に裸身の女形に戻ったカガリに自分の纏っていたマントを羽織らせた。
《これをどうぞ。ラクスが必要になるからと云っていたので、預かってきました》
牡鹿は、自分の背に引っかかっていた、薄絹の白のドレスを咥えカガリに差し出す。
素直に受け取り、カガリは樹木の裏に飛び込むと、渡されたドレスを纏った。
嗚呼。
なんということだろう。
まだ、太陽が中天に在るというのに。
ひとの姿をした彼女に合えるなんて。
アスランは、高鳴る気持ちを抑え、目を逸らさずカガリを見遣る。
事情はわかっているのか。
牡鹿は踵を返すと、ふたりを導いた。
《ゆっくり逢瀬を堪能したい気持ちはわかりますが、ラクスが待っていますので、先を
急いでいいですか?》
頷き、ふたりは歩を進める。
固く、互いの手を繋ぎ、牡鹿の後を追う。
鹿が歩む先に、再び障害が立ちはだかる。
どこまでも森を包むように張った、棘の壁。
太い枝には、鋭い刺が生え、侵入者を硬く拒んでいるかのように張り巡っている。
鹿は、空を仰ぎ、言葉を紡ぐ。
《こんにちわ、棘姫。守り番、ご苦労様。ラクスにお客様を連れてくるように頼まれている
んだけど、通してもらえるかな?》
刹那。
ざわり、と刺の太枝が蠢いた。
そして、訪問者を歓迎するかのように、一頭と人間ふたり分が通れる穴が棘の壁にぽっかりと
口を開けた。
この棘は意思を持って、言葉を解するのか。
ふたりは、唯々驚き、目を見張ることしかできなかった。
通過した後は、蠢く棘が道を閉ざしていく。
許された者しか通ることができない、と云われているかのように。
棘の壁を通り抜け、さらに道を進む。
木漏れ日降り注ぐ、森のなかは幻想に彩られ、実に美しい。
樹木の枝々には、小さな小動物が戯れ、小鳥たちの囀りが耳を楽しませる。
程なくして、眼前に、茅葺の屋根であしらわれた小屋が見えてきた。
その小屋の前には、白装束に身を包んだ女性が立っている。
その姿を確認した瞬間、牡鹿は小走りに走りだす。
《ラクス!》
「ご苦労様、キラ」
女性は微笑み、牡鹿の顔をすべらかな手先で撫でた。
「キラ、折角戻ってくれたのは嬉しいのですが、クルク村のラディ坊やが熱をだしている
ようなので、この薬を届けてもらえないでしょうか?」
《え!?僕、まだ鹿のまんま!?》
奇妙な、鹿と女性の会話に、アスランとカガリは眉を潜める。
「二足歩行より、四足の方が早いでしょう?」
桃色の髪の女性の言葉に、鹿が大きな溜息をついたように見えた。
《わかったよ、ラクスの頼みことなら無碍にもできないしね》
云うが早く、鹿は女性から受け取った小さな皮袋を口に咥え、来た道を戻っていった。
用件が済んだのか、にっこり微笑んだ、桃色の髪の女性に自然、注意が向けられる。
「お待ちしておりました、おふたりとも」
「待っていた、って?」
アスランは、当然の如く、疑問を口する。
「ずっと、見ていましたから。貴方たちがここを目指している頃から」
「見ていた?」
「はい。魔女が扱う、水晶玉は嘘をつきません」
微笑む、白装束の女性の柔和な笑顔。
「私は、この森に住む魔女、ラクスと申します。」
こうべを垂れた女性に、アスランとカガリは瞳を開く。
挨拶もそこそこに、家屋に招かれ、ふたりは導きに素直に従う。
流石に、魔術を生業としている者の住処だ。
小屋のなかは、怪しい呪具や、薬草、小難しい理解できない古書が所狭しに置かれている。
室内の中央に置かれた木製のテーブルは、手つくりなのだろうか。
やや歪な形が、また室内と妙に調和している。
椅子を勧められ、ふたりは並んで座した。
僅かな焦りを滲ませ、アスランは身を乗り出し、言葉を口にする。
「単刀直入に答えが欲しい。魔女、ラクス。…俺たちに掛けられた呪縛から開放される
手段はご存知か?」
「はい」
手ずから注いだハーブティを差し出しながら、ラクスは微笑む。
簡潔な返事だった。
ラクスの言葉に、光明を見付け、アスランは、自分の隣に座るカガリの顔を見遣った。
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