愛してる、…愛してる。
心が、身体が、…叫んでいた。
それでも、届かない、この想い。
空を舞う、彼女。
地を駆ける、彼。
太陽が、支配する刻の時、彼女は空を羽ばたく。
闇が支配し、夜の刻の時、彼は地を走る。
どんなに叫んでも、どんなに請うても、触れ合うことすら
許されない、身。
けれど、言葉はなくても、見詰め合う『眼』だけは…
偽りのない、真実。
誰にも、邪魔することの出来ない、真の心。
* * * * *
『 慟哭の空 』
広大な原野。
見渡す景色は、遮るものは一切存在しない。
果てしない大地を駆ける、一頭の黒馬。
それを駆るのは、黒衣に身を包んだ、ひとりの騎士。
疾駆していた愛馬の足を緩め、騎士は空を仰ぐ。
雲ひとつない空には、遥か上空を旋回する、一羽の鷹の姿があった。
それを確認してから、騎士は自分の唇に人差し指と親指で作った輪をあてた。
呼び笛。
舞っていた鷹の金の瞳が下界を見遣る。
大地に響く、その音に、上空を舞っていた鷹が反応を示した。
騎士が掲げた右手目掛け、鷹が飛来してくる。
鷹の鋭い爪先で傷をつけないよう施された、手首から肘下にかけての皮製の
アームプロテクターに鷹の足が接地、喰い込む。
勢いがつき過ぎていたのか、鷹の体が僅かつんのめった。
慌て、バランスを保とうと、もがくように鷹が羽ばたいたことに、騎士は笑んだ。
落ち着きを取り戻したように、優美に二度羽ばたくと、鷹は騎士を見た。
《ピィ―――ッ!》
鳴いたその声は、どこか騎士に対して甘えを含んだ声だった。
「おはよう、カガリ」
朝の挨拶を口にした、騎士の声音に、鷹は小さな額を彼の顔に擦りつけた。
人間と猛禽。
ありえないほどの懐きぶりは、傍から見たら随分と飼い慣らされているのだな、と感慨に思うだろう。
騎士の、自分の腕に止まった鷹を見る目線は、憂いに満ち、どこまでも優しい瞳だ。
時は、中世。
まだまだ、神とひとが共存する時代。
そして、目を潜めるような呪術も跋扈する、暗き世。
神術と、悪魔的儀式すら背中合わせの、闇と明が存在する。
この時代、騎士という職を担うのであれば、まず彼らが妄信するのが、ゲンを担ぐことだった。
とりわけ、『色』はまずその象徴であろう。
戦場に赴くべき人間は、自分の命運に幸あれと願い、纏う衣類の色を、赤無いし、白を好んだ。
が、この騎士の出で立ちはどうだ。
騎士としての姿、形としてはあり得ない色を纏う姿は、全てが黒。
黒は、死を連想させる色として、もっとも忌み嫌われる。
その色を敢えて纏う意味を、彼以外は理解できないだろう。
纏う中内の服は勿論、マントやブーツまで全部が闇を纏っている。
だが、当の本人は気にした風情もなく、腕に止まる鷹を愛でていた。
鳥類が、もっとも快感を感じる、眼のしたにある耳を指先で愛撫すれば、鷹は気持ち良さそうに瞼を瞑った。
「アスラン様!」
そんな、ひとりと一羽の寛ぎの時間を遮るかのように声が掛かる。
緑の髪の少年。
名をニコルと言う、彼の呼び声に、馬上の騎士は振り向く。
一ヶ月前ほどの出来事だった。
孤高のひとり旅、宛もなく馬を駆る日々のなかで、彼はこの少年に出会った。
旅を続けるなかで、アスランはどこを巡っても痩せ衰え、飢饉と重い税に苦しむ
村々に痛ましい視線を送る。
寂れた村の片隅で、生き絶え絶えの姿を見咎め、アスランは自分が携帯していた水と食料を与えた。
飢えと、死を待つばかりの少年に、生を与えた騎士に、以来従者として少年は仕えることを乞う。
始めは、旅の道連れなど必要ない、と頑なに拒んだ騎士に、少年は食い下がり、呆れたまま、
「勝手にしろ」
と、云う騎士に着いて回った。
子犬のように、纏わりつく少年。
裸足で駆け、追い駆けてくる様に見かね、新しい服と靴、そして彼に一頭の葦毛の馬を買い与えて以来、
影となく日向となく黒衣の騎士を慕い、着き従う。
そして…。
少年が知ってしまった、鷹と騎士の秘密。
知ってしまった、その秘密の仲介をいつのまにか果たす役目を担うようになっていた。
そう、言葉を交わすことができない、ふたりのために。
どんなに望んでも、触れ合うことも、唇すら交わすことができない、ふたりの橋渡しを、少年は自ら望んだ。
恩人である、騎士に仕える役割として。
アスランと呼ばれた騎士は、少年を見遣り、微苦笑を浮かべる。
今は、この少年が居ることになんの違和感もないのか、彼は言葉を返す。
「どうした?ニコル」
近隣の村の偵察へと、少年を向かわせ、その報告を聞こうと耳を傾ける様は、自然体。
「この先にある村なら、今夜の宿はありそうです。」
暫く考え、アスランは首を振る。
「いや、宿はとらなくていい。俺は、近場の森で野営をするから必要ない」
身持ちの金が惜しいわけではない。
漏らした彼の言葉がなにを意味するのか、ニコルはすぐに察した。
「宿代は払ってやるから、お前だけでも…」
云いかけた言葉は、即答で拒否を受ける。
「ご主人様が望まないのに、僕だけなんて出来ません!」
「別に俺に付き合うことはないぞ?」
苦笑し、アスランは腕の鷹を空へと解き放つ。
そして、愛馬の腹を蹴ると、また歩を進めた。
どこに行くとも宛のない、放浪の旅。
もう、年数も忘れてしまうくらい、こんな日毎を続けている。
終わりの見えない、旅。
いつ、終点がくるのかさえ、今のアスランにはわからない。
並んで馬を駆るニコルは、馬上のアスランに村で仕入れてきた情報を伝えた。
「また、税金の取立てが増したそうです」
「また?」
アスランは、ニコルの言葉に眉根を寄せた。
「はい。教会、デュランダル司教の圧力らしいです。」
デュランダルと云う名を聞いた途端、アスランはギリリと唇を血が滲むほど噛み締めた。
忌まわしいまでの、憎むべき男の名。
自身の身体に纏わりつく、忌まわしい呪いの見えない棘の蔦が締め上げられる感覚を感じ、
アスランは強く瞼を瞑った。
司教、デュランダル。
この地を、神の代理人と云う名目で、国王に代わって市政する男だ。
本来、神の使徒であるデュランダルには、民から税を徴収する権利はない。
だが、彼の口車に乗せられ、傀儡になり果てた王にはそれを止める力はない。
与えられた権力を傘に、横暴の限りを尽くし、民人から巻き上げた税で私腹を肥やす、教祖。
わかっていながら、それを止める手立ても、やめさせることも、今のアスランにはない。
アスランもまた、デュランダルの生み出した被害者のひとりだったからだ。
奪われた身分、家族、財産。
なにもかも、全て奪われた。
そのうえ、愛する恋人共々、かけられた呪縛に苦しむ性を背負わされ…
神職、神に仕えるべき身分の者が、悪魔と通じ、それを媒介する魔女を使って。
わかっているのに…
この苦しみから逃れる術すら、浮かばず、苦しめ続けられている。
暗い思念に囚われることを恐れ、アスランは強く首を振った。
日が沈む。
大地を焦がすほど照りつけていた日差しは、山の裾野に姿を消そうとしていた。
「…くっ」
早い呼吸を繰り返し、アスランは苦し気に服の胸元を鷲掴んだ。
秀麗なその顔を絶え間なく流れ落ちる汗が、その苦痛の凄まじさを物語る。
耐え切れず、膝を崩した傍で、ニコルが心配そうな視線でアスランを見遣った。
「…アスラン様」
ゆるりと立ち上がり、ふらふらと覚束無い足取りで、アスランは森の深部へと向かう。
「アスラン様!」
「来るなッ!! …見られたくない、喩えお前でも。…ジャスティスを頼む。」
愛馬をニコルへ託し、アスランは胸元を押さえたまま、森の奥へと消えた。
夕焼けの橙が、…沈む。
アスランの身体に見えない呪が棘の縛りで彼を苛む。
「…ッう …ああッ!!」
一本の、太い樹木に縋り、アスランは両膝を落とした。
蹲った青年の身体は、見る間にひとの形を崩し、服が地に落ちた。
そして、その服下、隙間から這い出てきたのは、一匹の黒毛の狼。
ごそごそと服から這い出た、異形の獣。
狼は、鬱陶しそうな仕草で、ぶるりと身を振り、辺りを見回した。
顔をあげ、夜空に顔を覗かせた月を見遣り、顎をあげる。
月への遠吼え。
仲間を呼んでいるのか、それとも縄張りを誇示しているのか。
一頻り、鳴いてから、狼は鼻をひくひくさせ、闇の空気を嗅ぐ。
刹那。
…かさり。
葉音を踏締める音に、狼の耳がぴくりと動いた。
狼としては、大型の部類になるだろう、その獰猛な姿とは打って変わって、
まるで飼い慣らされた家犬のように喜んで尻尾を振る様は、信じられない姿だ。
音源を辿って、視線を向けた先。
そこには、長いロングフードを被った人影が居た。
「…アスラン」
やや低い声。
ハスキーヴォイスの、声音。
だが、その声は紛れもなく、女の声だった。
声は確かに呼んだ。
アスランと。
《…クゥ〜ン》
姿態だけでなく、全身全霊で狼は甘えた声を漏らした。
対峙し、見合ったのは、翠と金の瞳。
狼の翠の双眸には、僅か切なさが翳った。
被っていた頭部のフードを落とし、女性は地に跪く。
まるで、狼を呼び寄せるかの如く両手を広げれば、そのかいなに狼は身を寄せた。
ふさふさと手触りの良い黒毛の首に腕を回し、女、カガリは狼を抱き締めた。
「…アスラン、…アスラン」
逢いたかったと、言外の声音が彼女の身を焦がす。
自分の身が、鳥になっている時には出来ない事。
両手で、彼を抱き締める。
今、黒狼を抱き締めている女性こそ、太陽が空にある間は、身を鷹へと変容させていた
女性だった。
日が沈めば、ひとの形へと姿を変える。
代わりに、夜、闇夜が刻を支配する時間は、アスランが狼へと変わる。
ふたりが、互いの姿を見遣れるのは、月が太陽へと、その支配権を譲渡する僅かな時間、
暁の時だけだった。
夜になれば、人型に戻ったカガリが、狼へと姿を変えたアスランに逢いに現れる。
夜は、ふたりにとって… 否、ひとりと一匹の、貴重な逢瀬の時。
立ち上がり、女性は狼を伴って、深い闇の森を闊歩した。
なんの躊躇いもない、確かな歩み。
狼と女性は、そのまま森を抜け、湖水へと辿り着く。
湖畔に辿りつくと、女は纏っていたフードを脱いだ。
「こら!なに、じろじろ見ている?」
ほんの少しだけ眉根を寄せ、カガリは狼を一瞥した。
「昼間、埃が翼について気持ち悪かったんだ。水浴びするから、見るんじゃない!」
《ワフ!?》
見ないよ、とでも云うような返事の唸りを返し、狼は背を向けると、その場にしゃがんだ。
両の前足を組み、そのうえに頭を乗せ、狼は目を閉じた。
くすり、とカガリは笑う。
フードの下に着ていた、薄着の絹のドレスを脱ぎ捨て、冷たい湖水の水にその身を浸す。
その彼女の姿を、盗み見る翠の双眸。
美しい姿態に、狼の瞳が潤んでいるように見える。
両手を月に掲げ、飛沫がすべらかな肌を潤していく。
こんな夜を幾夜となく過ごしてきた。
ひとであったなら。
自分の姿が、こんな獣の姿でなかったら…
アスランは、垣間見る、その瞳のなかで思う。
喩え彼女が拒否をしても、白いその肌を奪ばわずには居られないだろう。
…もう、随分と長い間、彼女とは肌を合わせていない。
もっとも、そんなことは考えても詮無いことだった。
自分の今の姿。
教祖デュランダルによってかけられた呪縛に囚われてから、カガリを抱けることは無くなった。
始めて自分の身体に異変を感じたのは、遠い昔。
激しい頭痛や、眩暈、動悸、息苦しさ、ありとあらゆる苦痛がアスランを襲った。
分けがわからず、アスランは自分が住まう屋敷の自室で倒れた。
気がついたとき、姿見に映った自分の姿に驚愕し、激しい恐怖を覚えた。
とにかく、この姿を見られてはいけない。
真っ先に浮かんだ思考に、逃げるように部屋から飛び出した。
自分の身体の異常に戸惑いながら、彼は地を駆けた。
そして、迎える朝日と共に、己の変容も解ける。
それを機に次々と襲い掛かる変事は、アスランにとって悪夢としか云いようのない日々だった。
まず起こったこと。
貴族身分である、両親へと掛けられた謂れのない、汚職と横領の罪。
身の潔白を訴えても、全てが黒とされ、身分も、財産も、剥奪された。
無念のなかで、両親は怨嗟の声をあげたまま、獄死した。
その後、形だけで残されていた屋敷には、火を放たれた。
犯人は未だわからず、未解決のまま。
そんななか、また恋人であったカガリにも、アスラン同様異変はおきていた。
彼女とは、幼馴染の関係。
互いの父親同士が、仕事柄親しかったおかげで、ふたりは幼い頃からの知り合いだった。
成長し、性の違うふたりは、家の繁栄のためにという名目を背負い、将来を誓う仲となるのには
当然の如く条件が揃っていた。
反対する理由もない。
ふたりは、自然にそれらのことを受け入れ、いずれは夫婦となる身の上になる。
育まれた愛は、永久を誓い、全てが順調だったのに…
ある日を境に、全てのものが崩れ去っていった。
あんなに足繁く、互いが逢瀬を重ねていたのに、日中、カガリの姿を見ることが無くなった。
カガリの両親も、アスランと同じく云われない罪に陥れられ、行方知れずとなっていた。
それを知ったアスランは、彼女を死にもの狂いで探した。
そして、見てしまった、彼女の衝撃の姿。
彼女も自分同様、異形の姿へと転じる様を見たとき、言葉を失った。
互いに縋る寄る辺すらなく、宛のない旅がここから始まった。
なぜ、自分たちの姿が変容するのか。
始めは、その事実を掴むことに必死になった。
当然のことだ。
ことを突き詰めていくうちに判ったこと。
この変事に深く関わっていたのが、司教デュランダルであるという事実。
敬虔な神徒である、カガリは熱心に教会に足を運んでいた。
そのミサを取り仕切っていたのが、デュランダルだった。
デュランダルは、真摯に神への祈りを捧げるカガリを気に入り、自分の褥に侍らせようと画策する。
だが、この時点で、カガリは未来を誓いあった男がいると告解し、司教の手を拒む。
神職に仕えるものが、色事に溺れるなど、考えられないこの時代。
民から巻き上げた、有り余る財と、権力、あらゆるものに訴え、執拗にデュランダルはカガリを篭絡しようとした。
が、そんな不遜な言葉に耳を傾けるほど、カガリは愚かではない。
なにより、心から愛してる男を裏切るなど、彼女のなかには存在しない。
手痛く、デュランダルを跳ね除けた結果、彼女も…
この頃から、黒を基盤とする魔女を配下に置き、デュランダルはひとつの呪縛を彼女に施す。
甘い顔は、悪魔そのものと化す。
可愛さ余って憎さ百倍。
その言葉通り、靡かなかった彼女を呪った。
魔女が使う水晶玉に映った、睦み合うアスランとカガリの姿を見た刹那、デュランダルは、
自分の使役する魔女に命じた。
『ふたりを二度と、ひととして合わせない呪いを掛けよ』…と。
事の真実を知って、カガリもアスランも絶望の淵に突き落とされた。
だが、ふたりは諦めず、見事に立ち上がる。
いつか、この呪を打ち破り、デュランダルを倒す日を願って。
いつ果てることのない旅が始まる。
そして、幾年経ったのかさえ遥かな記憶のなか、まだ解決の糸口は見つかっていなかった。
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