『 プレシャス 』 3

妊娠周期も後期に入ってくると、あんなに「暇だ」を連発していた
彼女の口癖が微妙に変化してくる。
「・・・重い・・・身体がだるい・・・ふぅ。」
最後は必ず溜息。
座っていたソファから立ち上がる時、つい「どっこいしょ。」
などと口走ってしまうと、彼女は激しく自己嫌悪に陥り、頭を
掻き毟りそうな勢いで身悶えた。
「ぐわぁぁッ!!『どっこいしょ』てなんだぁぁーーッ!!
なんで自分の身体なのに掛け声掛けなきゃ立てないんだッッ!!」
ムキッーーーッ!!と凄まじい叫び声をあげる彼女を見ると、
アスランはやれやれ、と溜息をつき、肩をあげた。
「アスラン、爪切り知らないか?」
「何時もの引き出しにあると思うけど。」
何気ない会話。
居間の置き引き出しを探ると、目的の物を見つけ、カガリはにっこりする。
無造作にぺたん、と床に座り、足の爪を切ろうと腕を伸ばして、
ぷるぷる小刻みに震えながら彼女の身体の動きが止まった。
「・・・腹が邪魔して・・・足まで届かない・・・」
それでも真っ赤な顔をして無理に手を伸ばそうとする彼女に、側で
見ていたアスランは呆れた顔で座っていた椅子から立ち上がり、
カガリの持っていた爪切りを優しく奪った。
「ほら、足伸ばして。俺が切ってあげるから。」
彼はそう言いながら、新聞の読み終えた広告を彼女の足元に敷き、
胡座をかいて座り込むと彼女の足を手にとって爪を切り始めた。
「・・・ごめん。」
「気にするな。仕方ないだろ?」
「なんか、こうも至れり尽くせりだと、お前の事、召使みたいにしてる
気がするよ・・・」
申し訳なさそうに、彼女が呟いた言葉に彼は笑いだす。
「召使?俺が?」
あははは、と彼は可笑しそうに笑うのに、カガリは赤面する。
「だってそうだろ!?何もやらしてくれないし、なにかやろうとすれば、
お前がすっ飛んでくるし・・・」
ぷぅ、と頬を膨らませ、カガリは吐き捨てるように言葉を漏らす。
「良いの。俺が好きでやってるんだから。カガリは無事に赤ちゃんを
産んでくれる事だけ考えてくれればそれでイイ。」
「過保護過多だと思わないか?」
「全然。」
「しかし、何にもやる事ないと眠くなるもんだよな。それになんか
妊娠してから余計に、って感じが・・・」
ふわっ、と軽い欠伸をしながら、カガリは目尻に浮かんだ涙の
雫を指先で拭った。
「寝るならちゃんとベッドで寝ろよ。ほら、終わった。」
彼女の爪を切り終わり、後片付けをしながら彼は立ち上がると、
カガリに尋ねた。
「夕飯の買い物してくるけど、なにか欲しい物ある?」
「トマト。」
「またトマトか!?この間、ひと箱空けたクセに、まだ食べるのか!?」
「だって食べたいんだもん。」
子供のように拗ねた彼女の視線が彼を見上げる。
「ま、イイけど。メニューのリクエストはある?」
「ハムのサンドウィッチが食べたい。」
「なんで夕飯がサンドウィッチなんだよ。」
呆れたような彼の口調が、益々カガリに拗ねた視線を増させた。
口を尖らせ、彼女は膨れっ面をすると、アスランは彼女の顔を見、
苦笑を浮べた。
「他の物もちゃんと食べないと・・・」
「アスランが作ってくれる料理、美味しいからなんでも文句は言わない。
だ・か・ら〜〜・・・トマトのサラダとハムのサンドウィッチにプラスアルファ−、
てことでお願いします。」
「解った。」
漸く、受諾の言葉が彼の口から漏れると、カガリは微笑んだ。
「私、寝ててもイイか?」
「夕飯前には起すけど、良い?」
「そうしてくれれば助かる。」
にっこり、と微笑む彼女に、アスランは緩い笑みを零しながら居間を出ていく。
出掛け前に、必ず毛布掛けて寝る事を彼女に念押しする彼に、カガリは
ベッドから間延びした生返事を返すのを聞きながら、彼は苦笑を浮かべ
部屋をでていった。



出産予定日が残り一ヶ月をきると、俄かに彼女の周辺も騒がしくなってくる。
「はぁ〜1週間於きの検診なんてかったるい。」
「何、言ってるんだか。」
毎度の呆れたアスランの口調と、カガリのだらけた態度。
それは、今や、日常の風景と化していた。
今日は週末。
カガリが妊娠してから、出来るだけ、週末は休みを取るよう勤めている
彼は、居間のシングルソファに深く凭れながら、彼女を見る。
大きく迫でた腹部を撫でると、カガリは溜息を漏らした。
「・・・気のせいかな?・・・なんか、今日は少しおなかが張ってる感じが
してるような気がするんだけど。」
「えっ?・・・だ、大丈夫か!?」
心配気に眉を寄せ、アスランは彼女を伺い見た。
「大丈夫だろ?万が一、何かあっても今日はお前が居てくれるし・・・
って・・・。あれ・・・?」
そんな会話の中で、ツキン、と妙な違和感が彼女の腹部に走る。
「・・・なに?」
見る見る、青ざめた顔になると、カガリはソファの腰掛部分に顔を押し付け、
その場に蹲ってしまう。
「カガリッ!!」
慌て、駆け寄ると、アスランは彼女の背に腕を廻し、落ち着かせるように
その背を擦った。
「・・・時計・・・」
「えっ!?と、時計!?」
なんでそんなモンが今必要なんだ!?と、慌てる彼にカガリは汗の玉が
滲み始めた顔でアスランに言った。
「陣痛だと思うから時間計らないと・・・秒針付きの腕時計・・・貸して。」
苦しげに荒い呼吸を繰り返す彼女に、アスランは自分がしていた腕時計を
外すと彼女にそれを渡した。
「・・・いッ・・・ツッ・・・」
きつく瞼を閉じると、カガリはうめき、ソファに縋るようにして両拳を握った。
きっかり15分。
はふっ、と息をつき、彼女は顔を起すと、今までの痛みに苦悶の表情を
浮かべていたのが嘘のようにケロッ、とした顔を起した。
「きっかり15分だな。・・・よし、今の内に準備だ。」
「えっ!?おい、ちょっと、大丈夫なのか!?」
「多分、陣痛の中休みだと思うから、後15分したらまた痛みがくると
思うんだ。今の内にシャワー浴びて・・・あ、そうだ!アスラン、入院の準備セット
していたバッグ、車に積んでおいてくれ。あとは・・・いつでも車だせるように。」
こういう状況に陥ると、男は実に情けない。
オロオロするだけのアスランに比べ、カガリはテキパキと指示を彼に与えていく。
言われたままに、準備をする彼に、カガリは苦笑を浮かべた。
時間に追われ、彼女はあとの準備を彼に任せると、自分の身支度に取り掛かった。
全ての準備が整うと、彼女は掛かり付けていた病院に、状況の報告をする。
直ぐに来て欲しい、との病院側の指示に従い、彼女はアスランに車をだすよう、
頼み込んだ。
玄関先で、また何度目かの陣痛に襲われ、彼女が蹲ってしまうのを、彼は
唯、励ますように心配しながら背を擦るしかない。
「・・・もう直、治まるはずだから、ちょっと待っててくれ。」
痛みを逃す為の呼吸法を予め習っていたので、その呼吸を繰り返し、彼女は
苦痛に耐える。
「擦るなら背中じゃないッ!腰擦ってッ!!」
「えッ!?あッ!?腰?腰擦ればイイのか!?」
彼女に怒鳴られ、アスランはわたわたと慌てながら彼女の腰を擦り始めた。
「・・・ふぅ、・・・治まった。」
すくっ、と立ち上がり、スタスタと車に向かって歩き出すカガリに、アスランは
泡を喰ったように追い掛ける。
「そろそろ時間の感覚が短くなってきてるから、早く病院連れていってくれ。
ああ、そうそう、安全運転でよろしくな。」
再び、泡を喰った表情になると、彼は助手席に彼女を乗せ、背もたれの
シートを緩く倒した。
運転席に飛び乗り、車が走り出す頃、再びカガリが苦痛に身を屈めた。
その様子をチラチラと伺いながら、アスランは心配気な視線で彼女を見る以外
術が思い浮かばない。
「大丈夫かッ!?」
「ちっとも大丈夫じゃないッ!!痛たぁッ!!」
その叫びにぎょっとして、アスランはブレーキを踏んでしまう。
「止まるなッ!!病院に早く連れていってッ!!」
車の中で出産が始ったら大変だ!と、彼は慌て、再びアクセルを踏んだ。
予め、電話をしていたお蔭で、病院に着くと玄関先には既にストレッチャーが
準備されており、彼女はそれに乗せられると直ぐに分娩室に運ばれていく。
傍らにいた看護婦のひとりに、彼は恐る恐る尋ねる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。それに初産なら、もっと時間掛かりますからご自宅に戻られて
結構ですよ。」
明るく、にこやかに微笑まれたが、彼は逆に看護婦に噛み付いた。
「帰れ、だって!?」
「ええ、出産が済んだら、お電話差し上げますので・・・。」
余りの彼の剣幕に、看護婦は冷汗をかきながら、腰をひく。
「・・・待ちます。」
「はぁ?」
間の抜けた声を漏らし、きょとん、とした瞳で看護婦はアスランを見た。
「待ちますッ!分娩室の前でッ!」
「あ・・・でも、多分時間掛かりますよ・・・なんせ、初産ですから。」
「それでも、待たせて頂きますッ!!」
「はぁ・・・」
彼の勢いに、看護婦は呆れたように肩を落とすと院内にずかずか、
遠慮もなく入っていってしまう彼を見送った。