数日後、準備が整い、アイオリア、魔鈴、そしてシュラとフェリスは
聖域を後にする。
目指すはエーゲ海のグラード財団が所有しているクルーザーが
繋留してあるというハーバーだった。
女連中は年も近いせいか、仲良くおしゃべりに夢中なのに、
シュラもアイオリアも苦笑を浮かべつつ、歩を進める。
ふと、フェリスが歩みの中でシュラに問うてきた。
「でもこれから船、乗るんでしょう? 貴方、免許持ってるの?」
「持ってるさ。アイオリアだって三級船舶の免許持ってるから
交代に操舵すれば疲れも半分で済むだろう?」
「ほえ〜」
驚いた声を上げ、フェリスは眼を見開いた。
「まぁ、仕事柄、あっちこっちと派遣されるから、場合によっては
人命救助だって必要になる事もある。自分の身を守るだけなら
問題はないが、負傷者なんかを運ぶ時にはやっぱり人力じゃ
限界があるだろう?」
そう言って、シュラは微笑した。
話を突き詰めると、シュラに至っては車は勿論、バイクの限定解除
やら飛行機のビジネスジェットの免許やらなんやらと山ほど免許を
持っているのに、フェリスはさらに驚きの声を漏らす。
魔鈴ですら、車とバイクの中免は所持しているのを聞き、フェリスは
感嘆の息を漏らした。
それもこれも全てはアテナの方針である、というのをシュラから聞き、
となると、概ね聖闘士と呼ばれるのなら、それも最低の必要条件なのか、
とフェリスは納得する。
「聖闘士辞めても、充分生活基盤は確保できるわね。」
と彼女の漏らした言葉に、シュラは声を出して笑った。
「技術的な事は幾らかは勉強しないと無理だけど、いざとなったら
君ひとりくらいは養えるさ。」
とシュラが言葉を締めくくると、フェリスは頭を下げ、
「お世話になりますわ。」
と皮肉めいた言葉を漏らした。
そうこうする内に、目的のハーバーに到着すると、アイオリアは船の出港準備に、
シュラは管理事務所への出航許可の申請にと、それぞれの役割を分担し、準備に
取り掛かり始める。
女性陣はその間、何もすることもなく、唯暇そうに、男ふたりがわさわさと忙しく
動いているのを見学しているしかなかった。
「ねぇ、魔鈴。」
「何?」
女聖闘士として、普段は仮面を被ることを義務とされている魔鈴にとって、今日は
無礼講。仮面を外してはいるものの、シュラの存在がある為、公には出来ないので
今日は濃い色のサングラスをかけている彼女はフェリスに視線を向ける。
「魔鈴はアイオリアの何所にひかれたの?」
少し吹いて、魔鈴は照れたように微笑んだ。
「・・・まじめなトコ、かしら。」
余りにも当然な彼女の答えに、フェリスはふ〜んと鼻を鳴らす。
「そう言う、フェリスはどうなの?」
「わ、私?・・・やっぱり・・・まじめなトコ?」
「まじめ? シュラが?」
あははは、と爆笑の嵐に、フェリスは赤面して下を向いてしまう。
「まじめ、は語弊かしら・・・ん〜何て言ったら適当なのかな?」
とフェリスは訂正箇所を模索する。
「昔はどうだったかは、詮索はしない。でも、今は彼ほど誠実なひとは
いない、と思っているわ。」
そうフェリスは言って、船上のアイオリアに桟橋から色々と指示を与えている
シュラに視線を移した。
「ご馳走様。」
魔鈴のからかいを含んだ言葉に、フェリスがあさっての方向に顔を向けると
同時に、準備が整ったから来るように、との声が掛かった。
シュラにエスコートされながら、フェリスと魔鈴はクルーザーに乗り込む。
最後に繋留されているロープを解いて、それを船内に投げ入れると
シュラは身軽に船に飛び乗り、白色のクルーザーは湾を出て沖へと
向かった。
慣れた手つきで舵を握り、アイオリアは備え付けてある無線のスイッチを
オンにした。次々と自動的に飛び込んでくる雑音混じりの情報に、今日の
出航に関しては問題なし、と再度確認する。
「どうだ?」
上部にある副操舵席に上ってきたシュラが、アイオリアに声を掛ける。
「最高だよ。クセがないから舵が取りやすい。」
「後で俺にも変われよ。」
「解ってる、って!」
子供のようにはしゃいでるふたりに、船室で水着に着替えたフェリスと魔鈴が
デッキに姿を見せ、上部操舵席のふたりを見上げる。
彼女達が着替えを済ませたのを確認して、シュラとアイオリアも操舵を交代しながら
水着に着替えた。
「・・・なぁ、フェリス・・・その水着・・・面積少なすぎないか?」
舵取りをアイオリアに任せ、シュラは後部デッキの船上に取り付いてる椅子に
腰掛けながら、フェリスに視線を送る。
「だめ?」
「いや・・・ダメじゃないけど・・・眼のやりばが・・・」
赤面して視線を外すシュラにフェリスは微笑する。
「興奮するでしょう?」
と、彼女はシュラを挑発するようなポーズをとって、投げキスを彼にした。
「ば、馬鹿言え!!」
真っ赤になりながら、シュラは持っていたビールを一気に飲み干した。
スポーティな赤い魔鈴の水着とは正反対に、フェリスは銀の細かい網目模様の
ビキニに腰にはパレオを巻き、首にはメイプルリーフの金のコインネックレスという
姿なのにシュラは正直動揺していた。
大分、沖まできたのか、辺りは一面の海原。行き交う船影も見当たらない。
海の色がコバルトブルーの爽やかな色合いに、フェリスも魔鈴もはしゃぎ通しだった。
そんな中、二頭のイルカが船に纏わり付くように回遊している姿を見つけ、
女性陣は歓喜の声を上げる。
デッキから身を乗り出すフェリスに、シュラは微笑を漏らす。
「あのイルカ、人慣れしてるみたい、全然怖がってないわ。」
フェリスの喜びの声に、魔鈴も同調していた。
しばらく騒いだあと、魔鈴が喉の乾きを癒す為、船室に入ってしまうと、
フェリスは思い切って海に飛び込み、泳ぎを楽しむ。
デッキからその様子をビールを片手に、見つめるシュラの視線に安心感が
備わってるせいもあった。
だが、異変は突然来た。
船が僅かに海上のフェリスから離れた時、彼女の様子が変な事に、それに気がついた
シュラは迷わず海中に飛び込んだ。
右足のふくらはぎを水中で抑えているフェリスに泳ぎ寄り、シュラは彼女の身体を軽く
片手で抱いた。
「足、攣ったのか?」
「みたい・・・いたたた・・・」
「準備運動もしないで飛び込むからだ」
彼に叱咤され、しゅん、となってしまう彼女に、シュラは注意を促す。
「船まで俺が運んでやる。でも、しがみ付くなよ、一緒に溺れちまう。」
うん、とフェリスは頷くと、彼に身を任せた。
だが、運が悪かった。海上にあるふたりに、クルーザーが背を向ける形になってしまったことに
シュラは舌打ちする。潮の流れに乗ってしまったのか、ふたりの身体がどんどんと船から離されて
いってしまうことに、シュラは声で船上のアイオリアと魔鈴に存在を知らせようと試みた。
しかし、その声も波音にかき消され、届かず、その間もぐんぐんと距離はちじまるどころか、
益々離れていくのに、シュラは僅かに焦った。
「まずいな・・・フェリス、魔鈴に海で泳ぐこと、言ってあるか?」
確認の言葉を口にするシュラに、フェリスは首を横に振る。
迷ってる間にも、クルーザーの船影は米粒のように小さくなってしまうのに、
早く、船上のふたりが気がついてくれるのを祈るしかなかった。
その祈りも空しく、数十分後には、クルーザーの姿は海上のふたりの視界から
消えてなくなった。
船上の魔鈴とアイオリアはシュラとフェリスの姿がないことに気がつき、
半分パニックに陥っていた。船上から海に向かい、大声でふたりの名を呼んだが、
彼らの姿を既に見失ってどのくらい経ったのか検討もつかなかった。
その頃、海上に取り残されたシュラとフェリスは途方に暮れていた。
だが、絶望に沈んでいても仕方ないので、取り合えず自力で陸を見つける少ない
確率に掛けるしかなかった。
シュラはフェリスの身体に緩く片腕を廻し、水中を引っ張るようにして泳ぎだす。
どのくらい泳いだのか、恐らく2kmは軽く泳いだかもしれない。
しかし、幾ら超人的な力を保有してる、とは言え、流石のシュラもフェリスを
介助しながら泳ぐのは辛くなってくる。
辺りに眼を配っても、島影どころか、高台の岩すら見えない。
不安な表情で彼を見つめるフェリスに、唯、大丈夫だと、言って元気つける
くらいしか手段が思い浮かばなかった。
やがて、不安な気持ちは、彼の腕の中の彼女の涙を誘う。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
唯々、謝罪の気持ちを口にするフェリスに、シュラは激しく叱咤の声を上げる。
「泣くな!! 泣いたから、って体力使うだけだ!」
だが、それが逆効果なのは、シュラも解っていたが、イラつく自分が彼女を
責めても仕方ない、と行き着くのに数分を使ってしまう。
「・・・フェリス、怒鳴って御免。でも、諦めたら、気持ちが負けたら、
体力だって消耗するんだから・・・解るよな?」
うん、うん、と頷く彼女を励ますように、シュラは彼女の額にキスをした。
波間に木の葉のように漂いながら、シュラは自分を自分で叱咤し、また
力強く泳ぎだした。
無駄なことかも知れない、でも彼女と一緒に海で死ぬ、なんて考えては
いけない、と自分に暗示を掛けた。
流れに身を任せ、できるだけ力を使わない泳ぎで、前進するのにシュラは
気持ちを傾けた。