シュラが育った場所はスペインの中央部にあるグラナダという街だ。
古い歴史が今も色濃く残る街並みが印象的な処である。
その地で、彼は8歳まで過ごした。
身寄りも、彼を育んでくれる両親もなく、預けられた修道院。
そこで彼の母として、彼を育ててくれたのがシスターマルガリーテ
という女性だった。
彼女は大勢の引き取り手のない子供達を、その修道院で面倒を見、
育てるという役目を担っていた。
修道院という特殊な環境ではあったが、神に仕える彼女の気持ちは
そこにある子供達を温かく包み込み、限りない愛を彼らに注いだ。
シュラもまた、そんな環境で育った内のひとりだった。
ある日のこと、シュラの秘められた特殊能力を見出され、彼は聖域へと
旅立つこととなった。
勿論、まだ年端も行かぬ、少年の彼を引き渡すことをシスターは拒んだが、
その拒否はあっさりと却下され、シュラは始めてギリシャ、サンクチュアリの
結界の中に踏み込むこととなる。
自分と年齢も体格も大差ない子供達の中に、自分の行くべき修行地を
割り当てられ、シュラはスペインのピレネー山脈へと送られることになった。
そして、このピレネーに来て、早くも2年の月日が経ち、シュラは10歳に
なっていた。
このピレネーにきて、まず思ったこと・・・それは今は自分の故郷になって
しまったグラナダとは気候の差が格段に違うことであった。
山脈のふもとには近い場所ではあったが、春も夏も短く、あとは山の気候
独特の厳しい条件がシュラを苦しめた。
スペイン、と言えば、太陽と熱を連想されがちだが、フランスとの国境にも
近いこの場所はあまり好条件の良い、人が住むべき環境には余り適して
ないかにも思える程である。
針葉樹が森の殆どを占め、まだ舗装のされてない荒れた道が数多くある、
そんな場所だった。
冬には豪雪地帯となり、国境との行き来が分断されることもあり・・・。
だが、そんな厳しい条件は聖闘士としての訓練には逆に好条件に思われる
場所であるかも知れない。
シュラの日々の日課は、まず水汲みから始まる。
師として彼の指導を受け持ったのはリュオンという男だった。
彼もスペイン人らしく、黒髪に黒曜石のような瞳を戴く、逞しい体格の持ち主で
見かけは青年には見えるが、童顔なのか、年齢の35歳には見えない若々しさを
保っていた。
そんなリュオンの教えについて、既に随分経ったというのに、訓練らしい訓練より、
寧ろ雑用に始まり、雑用に終わる、というのが今のシュラの生活風景だったのだ。
天秤棒を一方の肩に担ぎ、水を汲み置く為の樽を備えつけ、シュラは師、リュオンと
生活を共にしている古いログハウスを後にしていく。
緩い坂を下り、500メートル程先にある川にでて、水を汲む。
行きは良くても、帰りは困難を極める。
水を満水にした樽を持ち上げ、今度は坂を登らねばならぬのだ。
それだけでも10歳の子供には重労働である。
だが、リュオンはシュラの、その姿を監視するように見てるだけで、決して手を貸そう
とはしなかった。
やがて、それに慣れると、今度は天秤棒がもう一本追加され、持ち上げなければならない
樽の数は4つへと増える。
それを一日に何往復もし、休む暇もなく、今度は木を切り倒してこい、と新しい命令が
飛んでくる。
シュラはそのリュオンの言葉に、反論する訳でなく、唯、ひたすらに忠実に、その言葉を
実行していく。
大人用の斧を手にし、木を切り倒す。
勿論、このような道具に子供用のサイズなどあるわけがない。
斧を振上げる度に重心が後ろに持っていかれ、振り回されるのは当たり前の光景に
なっていた。
「腰を据えろ!足を踏ん張れ!」
忘れた頃に、リュオンがアドバイスもどきの言葉を発するが、なかなか思うようにいかない
現実はシュラを振り回すだけだった。
やがて、握った枝の手の中にはマメができ、それを続けていると皮が破れ出血が始まる。
そのマメの潰れた手のひらに、裂いた布を巻きつけ、シュラは泣き声ひとつ上げることなく
作業を続けたのだった。
始めの内は一本の木を倒すのに5日近く掛かった。
だが、慣れるとその日数は日々ちじまり、今では半日足らずで、その作業を終えることが
できるまでになっていた。
始めの内は、与えられたことの半分も達成することができなかったのだが、今では水汲みと
その他の雑事を含め、午前中で作業を済ませ、今は自宅となっているログハウスにふたりで
戻ってきて、昼食を済ませる。
一休みをし、次々と追加される新しいプログラムにシュラはへこたれることなく、喰らい
ついていった。
どのプログラムも自然を利用したものだったが、それらはシュラも自覚しない中で、彼の
内の力として蓄積されていったのだった。
ある日のこと、シュラはリュオンに連れ出され、切り立った崖の前に連れて来られた。
「この頂上にある、薬草を取ってこい」
さらっと、何気ない言葉でリュオンはシュラに告げる。
見上げれば、霧と雲が掛かって頂上など見えないような崖だ。
シュラは不安そうな瞳でリュオンを見上げた。
「俺はここで待ってる・・・何時間掛かるか、それとも何日か・・・それはお前しだいだぞ」
突き放した言いように、シュラは意を決すると、命綱もなしに、その崖を登り始める。
シュラの姿が見えなくなると、リュオンは崖を背にその場に腰を下ろした。
「何日掛かっても、ここで待っててやる・・・シュラ、挫けるんじゃないぞ・・・」
そう呟き、彼は煙草に火を灯したのだった。