『 その背に在りし、白き翼 − Angel’s kingdom − 』
「お〜い! ア〜スラぁ〜ン? 生きてるかぁ〜」
のっけからの、強烈な呼び出し。
カガリは、自宅の書斎で缶詰になっている、夫の名を呼んだ。
片手には、トレイに乗せた、煎れたてのコーヒーが入ったマグカップを二個、持っている。
そっと、なかを伺うように、彼女は扉を開く。
声を掛けても、・・・悲しいかな、当然返事はない。
居るのは、確実なのに。
それでも、返事がないのは、・・・なかにいるはずの人間が、意識を手離してる、としか
考えようがなかった。
根を詰めすぎて、よもや昇天、・・・なんてことはないだろうな?
「・・・アスラン?」
再び、カガリは、彼の名を呼ぶ。
扉を閉め、室内の奥、中央に置かれたデスクには、卓上につっぷした、彼が居た。
「・・・生きてる?」
確認をするように、うえから覗き込み、カガリは呆れたように息をつく。
伏せ、横向きの彼の顔は、冗談でなく、本当に逝ってしまいそうな顔だ。
薄く開いた口からは、白色の有機体が飛び出している感じすらする。
圧し戻してやらないと、本気で、『天国』にいってしまいそうに見えた。
「・・・大丈夫か?」
「・・・ちっとも、大丈夫じゃない。」
やっと、彼女の問いに応えた、彼の声は、精気がなく、気迫の欠片もない。
「コーヒー、煎れてきてやったぞ。」
「・・・ありがと。」
むっくりと、顔を起こし、彼は、愛妻が煎れてきてくれた、芳醇な香りを漂わす、
ブルマンを口にする。
「美味い。」
素直な、アスランの感想を訊き、カガリはにっこり笑んだ。
カガリは、彼の座っている、椅子の方に歩みを向け、デスクの引き出し側の部分に、
軽く寄り掛かった。
デスクの角縁に、臀部を軽く押し当て、机上の上に散らばった、紙片の群れに視線を落とす。
アスランの、背後にあるゴミ箱は、既に積載オーバーで、床に丸めた紙塵が、零れ落ちている。
苦労の跡の、滲みでている惨状は、デスクのうえも同様だ。
何十枚と散らばる、A5サイズの紙たちには、文字のうえに、バツ印や、何重にも引かれた、
斜線などが書き込まれ、どれも『お気に召して』いない、という様を物語っていた。
ふと、カガリは、そんななかの、一枚の紙片を手に取り、覗き込んだ。
紙の上下に書かれた文字には、削除印の二重線が引かれているが、その中央に
ぽかりと浮んだ、字体。
奇妙なアンバランスさを感じ、カガリはじっと視線を落とす。
何故、これだけが残っているのか、と彼女は首を捻る。
紙に書かれている文字。
ローマ字読らしい字体名は、『SAKURA』と書かれている。
「・・・アスラン? これは?」
彼の面前に、その紙を滑らし、彼女は、アスランに問うた。
「ああ、それ? ・・・ちょっと、消すのもなんだし、候補で残ったヤツのひとつだよ。」
「・・・意味は?」
カガリの素直な質問に、彼は苦笑を浮かべた。
「“cherry blossoms” のことだ。」
「・・・」
アスランの返事を訊き、カガリは瞳を開く。
「“cherry blossoms” のことを、他の国では、どんな風に呼ぶのかな?と思って、
色々調べたら、オーブに気候がよく似た、東方の島国では、そう呼ぶ、ていうのが解ったんだ。」
「・・・“SAKURA” かぁ。 良い響きだな。」
カガリは、純粋な意見で、眼を細め、紙片に視線を落とす。
「まあ、その花には、個人的にも色々と思い出あるしね。」
彼が、ぽつりと漏らした声に彼女は、目線をあげる。
「・・・13の頃、月でキラと別れた時、その花が咲き乱れていて、妙に印象ばかりが強くてさ。
あとは、確か、カガリにプロポーズした時期も、最盛期だったような気がして。」
アスランにとっては、忘れえぬ、思い出ばかりがあるらしい、花の名。
その逸話に、カガリは小さく笑った。
「経緯は、適当に説明するとして、これで決定でイイんじゃないか?」
「えっ?」
驚き、彼は、彼女が漏らした言葉に、瞳を開く。
「響きが気に入った。 それに、苗字とのバランスも悪くないし、なにより、女の子らしい
名前じゃないか?」
ほけ〜 と、アスランは口元を開けたまま、彼女の顔を見やる。
だが、直ぐに、笑みを浮べ、彼はデスクにカップを置き、応えた。
「カガリが、それで決定稿にしてくれるなら、それにしようか?」
「いい加減、妥協しないと、キリないぞ?」
「だな。」
彼も笑い、室内は、和やかな雰囲気に包まれる。
こうして、アスランは、苦行とも思える、孫の名付け作業から解放された。
ミューズも、イズミも、赤子の世話に、名無し状態が続いていたせいで、呼び方が『赤ちゃん』、
というのから、脱せると喜んで、その名を受け入れる。
名の由来の説明は、『オーブに昔から根付いている、花の樹』ということで、本当の
経緯は、若夫婦には、内緒、というのはかなりのミソではあるが・・・。
新しく、名を授けられた、小さな生命は、日々すくすくと育ち、体重も順調に増え、
なにより、家のなかを賑やかにさせる、震源地。
家のなかに、赤子の鳴き声が響く度、ミューズは忙しく、ぱたぱたと走り回り、落ち着きがない。
その様子に呆れ、カガリは溜息を漏らした。
「ミュー、そんなに、神経質になるな。」
「そんなこと云ったってッ!」
ミューズは戸惑い、困った顔を作り、母の顔を見やる。
居間の床に置かれた、ベビーバスケットを覗き込み、ミューズは心配げな表情を浮かべた。
「なんで、泣くの? オムツは変えたばかりだし、おっぱいもあげたのに。」
「抱いてやれ。」
カガリは、経験者ゆえの余裕なのか。
ソファに腰掛、緩く脚を組んだ姿勢で、軽いアドバイスを娘に与える。
「でも、本には、『抱き癖』とか付けちゃいけない、って書いてあったよ?」
「本はあくまでも、目安に過ぎない。マニュアル通りに、子育てが出来るなら、誰も
苦労しないだろ?」
「う〜〜っ。」
ミューズは唸り、バスケットの愛娘を抱き上げる。
途端、サイレンのように響き渡っていた、赤子の鳴き声がぴたりと止む。
にこにこと、嬉しそうな笑みを浮べ、小さな手を伸ばしてくる様は、とても可愛い。
「『抱き癖』なんてモンは、ないさ。赤ん坊は、母親の匂いや、体温を肌で感じとって、
安心するんだぞ? ま、あんまりしょっちゅうは大変だから、そういう時には、我が家には
優秀な、ベビーシッターがふたりも居るんだから、そういうのを利用するのも方法だぞ?」
カラカラ。
愉快そうにカガリは笑い、傍らに居た、アスランとイズミに視線を向ける。
ミューズの、てんてこ舞いぶりを見つつ、ふたりは今夜の、サクラのお風呂担当を
どちらがやるかで、口論の真っ最中だ。
「お義父さんは、もう、ずっといれているじゃないですかッ! 俺は、サクラが家に来てからも、
一度もいれてないんですよッ!」
「そんなの知るかッ! 昔から、風呂当番は、俺がやってきたんだッ! ミューズも
ディアナも、そうやってきたんだから、これは我が家の伝統なんだ!!」
がるるる〜〜!!
まるで、犬の喧嘩。
どちらも一歩も引かず、唸りあっている。
一体、いつからそんな伝統が出来たんだ?
と、カガリは呆れた息を漏らす。
子供達が幼い頃、アスランに風呂当番を任せていたのは、極単純な理由。
お風呂という解放区域では、赤ん坊は恐怖感を覚える。
男性の方が、手が大きいので、安定感が良いだけというだけだった。
まあ、アスランの名誉のために付け加えるなら、彼もなかなか器用で、カガリよりも
断然、いれかたが上手かったということも多分にあったが。
サクラ、と命名された、赤ん坊が、ザラ家にやってきて、そろそろ一ヶ月。
新米ママの、ミューズは、呆れた視線を、男ふたりに投げるだけ。
それを、可笑しそうに傍観しているのは、カガリ。
「もう!ふたりとも、どっちでもイイから、サクラをお風呂にいれてくれるなら、早く決めてよッ!」
ミューズの癇癪に、ぴたりと、口論が止んだ。
「・・・ジャンケンだ。」
「は?」
「ジャンケンで決めようッ!!」
「お義父さんッ!!」
アスランが、ぼそりと漏らした提案に、イズミは喰って掛かる。
「ジャンケンが、一番、公平だろうがッ!」
「そんなこと云って、後だしとかするつもりでしょう!?」
「俺は、そんな卑怯なことは、しないッ!」
やっぱり、元通りの口喧嘩に逆戻り。
カガリは、このふたりの様子に、呆れた姿態で、腕置きを枕にし、長ソファに身を横たえる。
ミューズは、寝そべるカガリの傍に近寄り、サクラを腕に抱いたまま、ぺたんと腰を床に降ろす。
「・・・ねえ、お母さん?」
「ん?」
「お父さん、なんで、あんなに、サクラのことで熱くなるの?」
くすくす。
カガリは、小さく可笑しそうに笑う。
「好きなんだろ? 子供が。 お前が小さい時は、私よりも育児は積極的だったしな。
外出の時なんかは、抱っこベルトは必需品だったし。 御蔭で、私は腰痛にもならずに、
本当に楽、させてもらっていたもんだ。」
子供を抱き続ける、という行為は、考えている以上に、負荷が掛かる。
長時間、抱っこをしなければならないのなら、やはり男性に任せるのが、一番都合がいい。
その辺に関しても、アスランはなにも云わず、手を貸してくれた。
そんな会話のなかで、勝利の声をあげたのは、アスランだった。
がっくりと肩を落とし、イズミはいじけた仕草で、膝を抱え、床にしゃがみ込んでいる。
にこにこと笑み、アスランはミューズが抱いていた、赤子に手を伸ばしてきた。
「あがったら、声掛けるからな。」
素直に、ミューズは、サクラをアスランに預ける。
背を向けた、父親の姿。
軽やかにスキップしていく様は、ミューズに小さな溜息をつかせる。
「・・・俺、いつになったら、サクラと風呂に入れるんだろ?」
膝のなかから、洩れる、イズミの怨嗟の声。
カガリは、腹を抱え、爆笑する。
ミューズは、どちらの肩も持てず、複雑な顔しか出来なかった。
月日は流れ、早くも、ザラ家に来た、『天使』は、相も変わらずの、アイドルぶりを大発揮している。
アスランと、イズミの、争奪戦も、サクラがお座りを出来る頃には、大分落ち着きを
みせるようになっていた。
イズミも、毎日の出来事のなかで、無駄な争いは、体力を消耗するだけ、ということに
気がつくと、アスランとの口論よりも、自然に身を引く手段を選ぶようになっていた。
某日。
ある晴れた日の、午後のティータイム。
庭のガーデンテラスのテーブルには、いつもの顔ぶれが揃っている。
「このお茶、美味しいね。」
ミューズは、お気に入りのダージリンを啜り、母親の顔を見やった。
「貰いもんだがな。 葉っぱが良いヤツなんだろ?」
何気な会話でも、そのひと時が、なによりも、愛しい。
ミューズの横には、イズミが椅子に腰を降ろしている。
彼の視線は、芝生のうえで、お尻を地面につけない形で、膝を抱え、座り込んでいる
アスランを見てた。
その面前には、お座りをし、じっと、アスランを見上げている、オッドアイ。
かれこれ、10分以上も、その状態のまま、ふたりは見詰めあっていた。
「・・・なにやってるの? あれ。」
ミューズは、眉根を寄せ、父親と愛娘の姿に視線を向けた。
「さあ?」
イズミは、呆け、よくわからない、と付け加える。
テーブルに、片肘をつき、彼は頬杖をついている。
彼も、紅茶のカップを口に運ぼうとした刹那、アスランの口からでた言葉に、熱い茶を
喉に思いっきり流し込み、噎せる。
ミューズは、ミューズで、まるで噴水のように、紅茶を噴き上げた。
「お、お父さんッッ!!」
「なんだ?」
ミューズは、勢いよく席を立ち上がり、アスランに詰め寄る。
「まだ、言葉も話さない赤ん坊に、なに、吹き込んでいるのよッ!!」
怒り、怒鳴る、ミューズに対し、アスランは、平然とした顔。
「別におかしくはないだろ? お前たちが、『ダディとマミィ』で、俺とカガリが『パパ、ママ』だって。
俺たちは、まだ若いんだ。 『おじいちゃん、おばあちゃん』なんて、死んでも云われたくない。」
「無駄な抵抗、なんでするのよッ!?」
ミューズは、額に怒マークを浮べ、アスランを怒鳴りあげる。
「・・・お前、小魚スナックでも食べろ。 カルシウム不足か? 最近、ヒステリー気味だぞ?
イライラするとサクラに悪影響がでる。」
暖簾に腕押し。
ミューズの、暴言を、軽くいなし、アスランは腰をあげた。
「カガリ、そろそろ、官僚府に行く時間だ。」
ガーデンテーブルに居る愛妻を緩く急かし、アスランは、仕事の2ラウンドめを告げる。
「ああ、もうそんな時間か。」
彼の言葉に、カガリはかったるそうに、大きく伸びをひとつする。
「イズミ。」
「はい? なんでしょうか?お義母さん。」
カガリの呼びかけに、イズミは返事を返した。
「軍服に着替えて、私たちと一緒に、官僚府に来てくれ。」
「えっ?」
彼は、瞳を開き、カガリの顔を見る。
「私たちと一緒に来て、仕事を覚えて欲しい。 本当は、ミューズも連れて行きたいがな、
今は手が離せない状態だから、貴方から仕込みを始める。」
にっこり微笑み、カガリはイズミを見やる。
直ぐに、反応し、イズミは椅子から立ち上がり、彼は、嬉々とした表情を浮かべた。
「ミュー、ひとりで大丈夫だろ? なにかあれば、電話を寄越せ。 どうしても間に合わなければ、
本邸に、マーナが居るから、来てもらえ。」
カガリの指示に、ミューズは頷く。
三人を見送り、ミューズは腕に抱いた、愛娘に視線を落とす。
すやすやと穏やかな寝息が洩れている。
苦笑し、彼女は自室へと、歩を向けた。
赤ん坊が寝ている、この時間に、自分も軽い昼寝をしようと考えたのだ。
カガリ曰く、母親は、多少のナマケモノの方が丁度良い、と教え説く。
きりきりした処で、なにも良い方向には、向かないと・・・
取り分け、『睡眠』は、赤ん坊の時間に合わせると、変則的で、大人の都合は皆無だ。
睡眠の不足を、少しでもカバーすることも、母親の務めだと、実の母は、ミューズに云う。
睡眠不足は、多方面に於いて、肉体的にも精神的にもダメージを齎すことが、多々あるからだ。
それでも、この環境は、恵まれている、とミューズは思う。
初めての出産、子育て。
わからないことも、不安も数えきれないくらいあった。
でも、そんな感情は、周りに居てくれる家族が、きちんとフォローしてくれる。
家族の愛に包まれている実感を感じながら、ミューズはベッドに横になった傍らに、
愛娘を寝かせた。
添い寝をし、紡がれる、小さな子守唄。
母である、カガリも、幼いミューズを寝かせる時、口ずさんだ、歌。
親から、子へ。
いつか、この小さな娘も、愛するひとを見つけ、旅立っていくのだろうか。
・・・そんな日が来たら、父親のイズミは、どんな顔をするのだろう。
実父のアスランのように、うろたえ、やはり、いじけてしまうのか?
そんな思いに耽り、苦笑が、ミューズの顔を彩ったのだった・・・。
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