失うことなど、戦争が終わった今、ありえることだとは
考えもしなかった。
・・・こんなこと、あって良いわけがない。
ひとりにしないで。
私を見て。
お願い・・・
最後の声は、『祈り』
まだ、彼をつれていかないで下さい・・・
私には、まだ彼が必要なのです・・・
心の中で願った名は・・・
彼女の父の名だった。
『 看病 』
南アメリカ北部。
熱帯雨林のその地は、アマゾンと呼ばれ、地球の半分以上の緑が
ここにある。
地球の90%を占める酸素の供給は、この密林が生成しているといわれながら、
今もまだ、現住民による、土地を広げるための焼畑が行われるている。
樹が完全な成長を遂げるのに、100年もの年月が必要とされるのに、
ひとはその樹を10分で切り倒してしまう。
地球の衛星軌道に浮ぶ、監視カメラからも、森を焼く煙は絶えることなく
見ることができた。
アスランとカガリは、オーブの代表として、内国の政、外交外でも、様々な
様相を視野にいれ、活動を続けていた。
夫婦として、ふたりはかの地を訪れ、視察を繰り返す。
住民を説得し、焼畑を止めさせ、その代わりに定住畑の推奨とオーブの
技術を提供することを勧めている。
勿論、そうすることによって、生活苦などの要因が起こらぬよう、資金の
援助も惜しまない。
早朝から、夕方、闇が森を支配する時間帯まで、ふたりは自らの足で
動き回り、活動の輪を広げていった。
提供されたホテル。
・・・ホテルとは名ばかり。
奥地に入り込めば入り込む程、施設は貧しいものへと変わっていったが、
ふたりはそんなことは気にも留めない。
文句を言ってなんになるのか、という思い。
なにより、贅沢すぎる身の上だと、笑いすら漏らした。
コテージに似た、木造の建物。
雨露を凌げれば、充分という返事に、案内を任された、高官のひとりは
ほっと息をつき、申し訳なさそな顔を作った。
仮にも、オーブという、独立した、一国家の代表であるふたりには
不釣合いなものしか提供できぬことへの後ろめたさが滲みでていた。
だが、地位があっても、それに胡座をかくほど、このふたりは高慢ではない。
今日の予定を全てクリアーし、案内係りの男が部屋を後にすると、やっと
ふたりだけの時間が訪れた。
二階に位置するこじんまりとした部屋。
部屋からベランダにでれば、濃い緑の風景を一望できる。
手摺に身を凭れさせながら、カガリは後を追って、でてきたアスランに
視線を向けた。
「今日も、随分歩いたな。疲れただろ?」
優しい労わりの言葉。
「いや、俺は大丈夫。 カガリこそ、疲れたんじゃないか?」
それに応え、アスランは彼女の隣で優しく笑んだ。
そっと、彼女の肩を抱き寄せれば、カガリも解ったように彼の肩に頭を乗せた。
彼の腰に片腕を廻し、より互いの身体が密着する感覚で身を預ける。
「あ〜あ。仕事じゃなければ、楽しい観光なのにな。」
ぼやきが漏れる、彼女の唇。
ぷっ。
アスランは思わず吹き出してしまうのを、緩く睨まれた。
「もうちょっと頑張れば、キサカさんがお目溢し、くれるかもしれないぞ。」
「あの仕事の鬼が、そう簡単に休みなんかくれるわけ、ないじゃないか。」
皮肉。
結婚して二年の歳月が流れ、首長とその補佐、という関係は相変わらずでは
あったが、今はアスランの立場はかなりの重要ポストだ。
仕事の流れも、彼女ではカバーしきれない部分は、彼が居るからこそ、
流れを止めずにいられることも事実だった。
多忙なふたりの日常。しかし、それはそれで、言葉を変えれば、
充実してる、とも言えよう。
密林に沈んでいく夕日。
森林浴、とはよくいったものである。
目の前にある、濃い緑は、ふたりの心に僅かながらも潤いを与えた。
キキッ。
不意に聞こえた動物の鳴き声に、ふたりは音源に視線を移した。
ベランダの手摺をつたってきたのか。
一匹の猿が手摺の端に腰掛けている風景がふたりの視界に飛び込んでくる。
右の肩口に金の毛。
珍しい種類の猿だ。
「野生の猿かな?」
おいで、おいで、とカガリが手を差し伸べると、猿は恐れる様子もなく彼女に
近寄ってきた。
「ひとなれしてるのかな?全然、怖がっていない。」
「いや、慣れているんじゃなくて、ひとを敵と認識していないのかも。」
「なるほど。」
頷き、カガリはズボンのポケットを弄った。
昼間、視察地を歩いている時、少しだけかじったビスケットの残りを
入れたことを思い出し、それを差し出そうとしたのだ。
が、それはアスランの手で制された。
ひとから食べ物をもらうことを覚えさせるのは、良くない、という理由で。
そんな間の間に、猿はふたりの手の届く距離まで移動してくる。
「撫でるのは構わない?」
「それくらいなら、大丈夫じゃないかな?」
くりくりとした愛らしい目線に、カガリは嬉しそうに笑んだ。
野生に生きる、生き物との触れ合い。
政務に追われるふたりは、ペットを飼っても、ちゃんと面倒を見きる自信が
ないから、という理由で、自宅には一切、そいう類のものはいない。
嫌いではないだけに、『時間』が理由で動物を飼えないことが執着心を生んでしまう。
仕方ないことかもしれない。
カガリの方がその意識は彼より強いように見受けられる。
彼女の瞳は実に嬉しそう。
「可愛い。」
撫でる手先に、猿はおとなしく、されるがまま。
「アスランも撫でてみれば?」
「え?」
彼女に手を引かれ、差し出した刹那、猿はあまりにも突然の行動にでた。
「痛っ!」
うめき、彼が手を咄嗟に引く。
噛まれたのだ。
「アスランッ!」
右の人差し指の先端に、滲む血の雫。
カガリは慌てて、その指を口に含んだ。
「このくらい、大丈夫だよ。」
苦笑を浮べ、アスランは緩く笑んだ。
「こらッ!なにするんだ!もう!」
めっ、と猿を叱る彼女をきょとんとした、生き物の視線が見上げた。
「もう、日が落ちる。早く森へお帰り。」
彼女の言葉が理解できたかどうかは解らないが、猿は再び手摺をつたい、
森の茂みへと姿を消していった。
猿の姿が視界から消えてから数秒。
傷を付けられた、彼の指先をとると、カガリは心配気な表情を浮かべた。
「消毒しよう。薬つけた方が良いかな?」
「平気だよ。カガリがちゃんと消毒してくれたから。」
「舐めただけじゃんか。」
笑う彼に、彼女は頬を膨らませた。
しかし、この小さな出来事が、大いなる災いの元凶である等ふたりは
この時は気付きもしなかった。
アスランの身体を蝕み始めた、眼で捉えることの出来ない、病巣が彼の身体を
侵し始めていたなど・・・
のどかな時間の流れ。
それが、どんなに後悔しても、後悔しきれない現実になって襲い始めるのは
すぐにだった・・・
無事に視察を終え、数日後のこと。
アスランは目覚めの悪さにベッドで身を起こしながら、うめく。
朝は決して得意な方ではないけれど、こんな気分の悪さは初めてだ。
いつも寝所を共にしている彼女は、とっくにベッドを抜け出、姿はなかった。
彼よりも早く起床し、朝食の仕度をすることは日課なので、あと数十分も
すればカガリが起こしにきてくれるはずだ。
頭が重い。
目眩すら感じる、この不快感はなんなんだ?
緩く首を振り、彼はベッドを出ようと床に足をつけた。
シャワーを浴びれば、すっきりするかもしれない・・・
そう考え、彼はのろのろと立ち上がった。
が、シャワーを浴び終えても、不快感は増すばかりで、どんどん酷くなっていく。
今日は大事な閣議がある。
カガリひとりに押し付けられるわけもなく、義務感に突き動かされ、彼は
彼女が朝食を用意してくれているだろう、ダイニングキッチンへと向った。
「おはよう、アスラン。」
いつもと変わらず、彼女は優しい笑みで彼を迎えた。
「あ・・・ うん、・・・おはよう。」
ぼやける視界。
目元を押さえ、彼は俯いたまま、彼女に返事を返す。
彼の返事のトーンが微妙におかしいことに、彼女は眉根を寄せた。
「具合悪いのか?」
「ちょっとね。・・・でも、大丈夫だよ。今日の会議は俺も出席しないと
いけないものだし。・・・休めないから。」
「・・・そうだけど。・・・でも、顔色真っ青だぞ。」
「そんなに酷い?」
こくん。
頷く彼女に、彼は苦笑を漏らす。
「とにかく、今日はやることやらなくちゃ。政務滞らせたら、またキサカさんに
怒られちゃうだろ?」
「そうだけど・・・」
「どうしても駄目なら、ちゃんと許可もらって中座させてもらうから。」
「・・・うん。」
不承不承な声音が、彼女の唇から漏れた。
本当は無理なんてしてはもらいたくない。だが、彼が居なければ、内容の進行に
支障をきたすのも事実。
困るのはカガリだ。
食事を薦めたが、一言で済まされてしまった。
「食欲ない・・・ コーヒーだけで良い。」
折角作ってくれたのに、申し訳ない、という顔をされれば、無理強いなんて出来ない。
いつも通り、定時に家を出、閣議を無事に済ませ、昼に近い時間帯。
会議室からでた途端、アスランは足元を掬われるような感覚に膝をついた。
「アスランッ!!」
慌て、カガリは彼の身体を支えた。
彼に触れた途端、その身体の異常な熱さに彼女は瞳を開いた。
「お前!熱あるじゃないかッ!」
「熱?・・・ ああ、それで視界がぼやけるのかな?」
「冗談云ってる場合かッ!! キサカッ!直ぐに、フォーリー先生を呼んでくれ。
私はアスランと家に戻るから。 それと後のことは済まないが・・・」
傍にいたキサカはカガリの指示に静かに頷いた。
自宅に戻り、彼をベッドに運んでから、カガリは彼の体温を測って、驚愕に
瞳を開いた。
「40℃!?」
直ぐに氷嚢を用意し、彼の頭に乗せる。
「・・・ごめん。・・・皆、忙しい時に・・・」
「馬鹿!謝ってる場合かッ! なんで、こんなになるまで黙っているんだッ!」
「・・・ごめん。」
うなされるように、彼の唇が小さく動いた。
そんなやり取りの中、キサカの手配で呼ばれた医師、デビッド・フォーリーが
ふたりの自宅に到着した。
三十代後半、黒髪には僅かながら、白いものが混じり始めてはいるが、
その顔は年齢を感じさせない、生気に満ち溢れている、紳士。
それを出迎え、カガリはアスランを寝かせつけていた寝室に彼を案内する。
オーブはコーディネイターとナチュラルが混在する、特殊な地域。
フォーリー医師は、その特殊な環境でも、分け隔てなく、両種族を診、信頼も
厚かった。
そして、カガリを始めとする、氏族の主治医でもある。
コーディネイターは、元来が丈夫という見方が大半ではあるが、ひとである限り、
健康を損なうことだって当然ありえる。
医師の立場として、まだまだ、未知数を含むコーディネイターたちを観察研究し、
遺伝子を専門とする分野にも長けていた。
カガリの幼少のみきりより、彼女を守り、見詰めてきたひとでもある。
その関係は親子に近いものでもあった。
フォーリーはベッドに臥せる、アスランの顔を見た途端、眉を寄せ、カガリに告げた。
「すぐに採血して検査をしよう。」
「検査、って。 ・・・先生?」
「症状が感染症の疑いがある。」
「感染症?」
「急激に熱があがり過ぎだ。 カガリ、なにか原因は思い浮ばないのかね?」
フォーリー医師は、付き添いの看護婦に指示を与えながら、カガリに問うた。
「・・・南アメリカの北部に視察に・・・。帰ってきたのは3日前で・・・」
「アマゾンに行ったのか?」
フォーリーは印象的なアイスブルーの瞳をカガリに向け、更に問う。
感染症の直接的な原因。
カガリは思い浮ぶ全てのものを、頭の中に叩きだす。
「・・・噛まれた・・・ そう云えば、・・・噛まれたんだ、猿に・・・」
アスランの腕から採取した血液を、フォーリーは看護婦に渡しながら、
すぐに病理検査をするよう指示し、カガリの話に耳を傾ける。
「猿に噛まれただと?」
呆然とした瞳のまま、カガリは頷く。
「・・・カガリ。 覚悟はした方が良いかもしれん。」
「・・・覚悟?」
なにをフォーリーが云っているのか解らない、という風にカガリは彼を見た。
「コーディネイターは、決して進化した、特別な存在ではないのだよ。」
「・・・先生?・・・」
研究者としての、フォーリー医師の言葉は、彼女の心臓を凍りつかせる。
「一般的には、強固な身体を維持し、その体力も全てに於いて抜きん出ては
いても、彼らもひとであることには変りはない。・・・勿論、病気に関しても、
その抵抗力は桁外れではあるが・・・」
苦し気な表情を浮かべるフォーリーの顔をカガリは凝視した。
「それは現存する病気に関してのみ有効なことだ。 もし、それが未知の
ウィルスであったなら、抵抗どころか、広がればコーディネイターたち自体、
一気に滅んでしまう可能性がある。」
「なんで、そんな!だって、私は彼が噛まれた時に、血を舐めたし、それ以上の
ことだって、彼とはしているッ!でも、私はなんともなくて、なんでアスランだけッ!」
感染するとすれば、唾液感染、もしくは、粘液の交わり。
それは一般的な常識だった。
「恐らく、君にはなんらかの形で免疫力が働いたと考えるべきだろう。」
抵抗する力が彼女にはあり、アスランにはそれが存在しなかった、という
フォーリー医師の言葉にカガリの身体は小刻みに震えた。
「彼らは自らの手で『進化』を止めてしまっているんだ。」
「『進化』を止める?」
「遺伝子はひとの細胞の中でも特殊な働きを持っていることは解るね?」
こくん。
彼女は緩く頷く。
「太古の昔から、我々もひとであっても動物なのだから、置かれた環境に適応する
ために、遺伝子は学び、学習をしながら、適応してきた。あらゆる病気に対してもそう。
だが、コーディネイターはその遺伝子に上書きをする形で、今の身体を手にいれたと
したら。 ・・・自然ではなく、学んだ情報でない不自然な情報は学ぶことを止めてしまう。」
「学ぶことを止める?」
「今の時代には、コーディネイターたちは最適化をしているだろうが、未知のもの、
特に病気に関しては抵抗力を発揮することは不可能だろう。 遺伝子自体が、
情報として傷つけられていると認識していたら?」
「・・・」
「その弊害の一部は、既にでていることは・・・君にも解るだろう? カガリ。」
弊害・・・
少子化現象。
子供が生まれず、今も人口の減少が止まらない、コーディネイターたちの実情。
「でも、・・・それでも ・・・先生、・・・彼を助けて・・・」
ベッドの前に跪き、カガリは彼の手を握った。
ぬるっ。
握った刹那、自分の手のひらに感じる、不快な感触にカガリは瞳を開いた。
恐る恐る、自分の手を開き、彼女は驚愕に眼を見開く。
「・・・なに ・・・これ・・・」
べっとりと、纏わりついた、赤。
ゆっくりと映した彼女の視線の中に、紅に染まったシーツが映った。
血?
彼の、・・・アスランの?
体内に侵入したウィルスが、血管を侵し、食い破ったのではないかと
フォーリーは判断した。
汗腺を通り、血が滲みでてくる、アスランの身体。
「いやあぁぁッッ!!」
錯乱した悲鳴をあげ、カガリは彼の首元に縋った。
「アスランッ!アスランッッ!!眼を開けてッ!!私を見てッ!」
叫んだ瞬間、ぐいと、力強く、彼女の身体は後方に引っ張られた。
そして、容赦なく浴びせられる、頬への平手。
「落ち着きなさい。妻である貴女が取り乱してどうするんですか!?」
縋り、カガリはフォーリーの白衣を震える両手で握った。
ずるずると力なく、座り込んでしまう彼女の身体。
「・・・先生。・・・お願い・・・助けて ・・・アスランを助けて・・・」
滴り落ちる涙を拭いもせず、カガリは項垂れながら、フォーリーに訴えた。
「・・・最善は尽くす。医師として。」
そう彼女に告げられた言葉に、カガリは崩れた身体を起こしもせず、
床を見詰めるだけだった。
ぱたぱた・・・
彼女の眼から滴り落ちる、涙の雫。
その雫は床に広がり、染みを広げていく。
こんなことで、失うかもしれないなど・・・
考えもしなかった現実に、カガリは己を見失いそうな錯覚に囚われる。
立ち上がる気力さえ失われ、彼女は両手で顔を被った。
「・・・アスラン、・・・いや・・・こんなこと・・・あんまりだ・・・」
漏れる嗚咽。
フォーリーはカガリの背の高さに合わせ、身を屈め、彼女の肩を優しく抱き寄せた。
「私も努力するから・・・ カガリ。」
その言葉に、カガリは唯、頷くだけしか出来なかった。