『リング 〜Ring〜』 @    著/ 瑠璃 希羅々




ドレスアップして鏡の前に座る。
やはり肌のコンディションが悪い。
昨夜あまり眠れなかったからだろう。
まだ若い肌なので1日くらいの睡眠不足はそれほど目立つものではないが、
同席する相手を考えると手を抜くことは出来ない。
ベースメイクを入念に行い、マスカラを手に取る。
蓋を開けたものの気が変わりルージュを先に塗った。
(だめだわ…)
側にあったティッシュでぐっと拭き取る。
緊張しているのだろうか?
手が震えて上手くできない。
鏡に写る自分の顔を見て自嘲する。
アイシャドーもチークもなにも入れてない、なんて間抜けな顔。
仕方ない、ちょっとみっともないけれど、と肘を台に固定し、鏡を覗き込むようにして
色味を付けていくことにした。
後はルージュだけ。
「どうしたぁ?」
シュラが後ろを通り過ぎながら鏡を覗き込む。
両手に抱えた洗濯物が彼女の笑いを誘う。
「あなたがこんなに家事に精を出しているなんて、誰も信じないわよね」
そうかー?と別段照れる様子もなく、ドサリと抱えてきたものを降ろす。
畳み始めるとフェリスの下着を広げ、わざとイヤらしい表情でにんまりしてみせる。
いつもならあきれたように怒る彼女だったが、今日は間髪入れずに化粧道具が飛んできた。
相当機嫌が悪いらしい。
綺麗に着飾り何処かへ出掛けるというのは、女性にとって非常に楽しいことである。
しかし、彼女の場合その行き先が問題だった。
今日のデートの相手は女性、それもここで一番の権力を持ち、あまつさえ自分の夫が
守るべき存在であるアテナなのだ。
今日、彼女はアテナの晩餐会に呼ばれた唯一人の客。
彼女が呼ばれる理由はおそらく次代アテナを産む『ニケ』であるから。
あの日、シュラは子供をつくろうと言ってくれたが、二人にはまだ子供が授かった
という兆候はない。そのことが彼女の心を重くし、不安にさせているのだ。
そんなフェリスの気持を察しているシュラが立ち上がり、彼女を包み込むように抱き寄せる。
「大丈夫だよ。現アテナはまだ若く力もある。今すぐ次代アテナの必要もないし、
その出現を望んじゃいないよ。それに、俺は『ニケ』が欲しい訳じゃない。
たとえ君が心配するような事態が起こっても俺達は変わらないよ」
やっと塗り終えたルージュの唇にシュラの唇が重なる。
彼女の不安を覆い尽くすようなキス。
そんな彼の想いがフェリスの不安な心を軽くしていく。
お互いの想いを確かめて彼が耳元でささやく。
「フェリス、いつも言っているだろ?ルージュは落ちないものにしろって」
「莫迦…」
くすくすと笑い合う二人。
和んでいた彼の瞳が鋭く光り、人影の映った窓を勢いよく開けた。
「わっ…痛たた…すみません。何度もドアをノックしたのですが、お出にならないので、
何かあったのかと思いまして」
そこにはムウの姿があった。
勢いよく開いた窓に驚いて転んだ彼は埃を払いながら立ち上がり、シュラに向かい合った。
すると、いつも冷静な彼がぶぶっと吹き出し、こほんと咳払いの後、肩を震わせつつ言う。
「お取り込み中に大変失礼致しました。ですが、そろそろお時間ですので、お支度を」
はっと気づき唇を拭うシュラ。
「…フェリス、2度とこのルージュ、使うなよ」
彼の声は届かぬまま、フェリスは身支度を整えに奥へと消えた。
残された2人も何となくバツが悪いせいか、目を合わさぬよう玄関に向かってそれぞれ歩き出す。
フェリスが外に出ると、ムウの他に宮中に仕える女人が2人、彼女のドレスの裾を気にしながら
側につく。馬車に乗り込み、ドアが閉められるとムウはシュラに軽く会釈をしてアテナの待つ
宮へと向かった。




アテナのいる神殿には幾つかの部屋があると聞いていたが、それがどのくらいの数なのか
フェリスには検討もつかない。
彼女が通された部屋はこぢんまりしているが、品のよい調度が設えられた上流階級のものであった。
ギリシャ神話のアテナの戦いぶりを絵描いた物が1枚だけ壁に掛けられている。
おそらくアテナのプライベートルームの一つに違いない。
彼女が部屋の見事さに感動していると、恭しく扉が開いた。
沢山の召使いに付き添われ中央を歩くこの部屋の主を想像しつつ、フェリスは最上級の
お辞儀をしていた。
「そんなに堅くならないで。こちらが招待したのですから」
フェリスが頭を上げると、供の者は一人もおらずアテナ自らが彼女のためにイスを引いた。
「どうぞ、お掛けなさい」
そう言われても並々ならぬ威圧感である。
フェリスは失礼にならぬよう気遣いながら席に着いた。
「まずは喉を潤しましょう」
アテナの言葉を待っていたかのように食前酒と前菜が運ばれてきた。
『乾杯』とグラスを軽くあげ、整った唇を付けたアテナは大理石の彫像の様になめらかな
美しさがあり、思わずフェリスは同性でありながら彼女に見とれてしまった。
いくらこの地での女王であり、自分の夫の主であるとは言え同性に見とれてしまったことに
慌てたフェリスは、思わず食前酒を一気に飲み干してしまった。
女性が一気にグラスを空けてしまうという失態に何となく恥ずかしくなり、フェリスはなるべく
アテナの顔を見ないようにと前菜と格闘する。
「どう、フェリス。シュラとは仲良くやっている?」
不意に話しかけたアテナの口調が余りにも女友達のそれであったため、面食らった彼女は
口に入れようと運んだフォークもそのままに、あんぐりと口を開けたまま、アテナを見つめた。
「何て顔してるのよ。鳩が豆鉄砲喰らったみたいに。早く口の中に入れちゃいなさいよ」
何がなんだか判らないまま、彼女は言われたとおりにフォークに刺した貝を口に押し込んだ。
仲良くやってる?というのは、もう子供は出来たかと言う意味なのだろうか。
『ニケ』の役割を果たしているかとお聞きになっているのかもしれない。
役立たずとなったら、もうシュラとは居られなくなってしまうのではという不安から、
彼女はとんでもないことを口走る。
「そっ、それは勿論。毎晩疲れ果てて眠るまで、シュラは離してくれないし。
もー、彼ったらそれはしつこい位に。中年になったらどうなっちゃうのか今から心配で」
余りにも気が動転したせいか、フェリスは自分の言ったことがよくわかっておらず、
言われたアテナも余りにもストレートな答えであったため、しばしの沈黙が訪れた。
それでも冷静に一つ咳払いをして、アテナが口を開く。
「それは何よりです。愛する者と連れ添う暮らしとは、『幸せ』ということなのでしょうね」
少し悲しげな様に見えたのは、フェリスの見間違いだっただろうか。
そう言えばアテナも年頃の女性だ。
結婚はしないのだろうか?
結婚してアテナから産まれた子供が次代のアテナになれば『ニケ』など不要になる。
なぜ、そうならないのだろう?不思議に思ったものの、久しぶりのお酒のせいでそれ以上
考えはまとまらなかった。
話が弾み、いつもより上機嫌になったフェリスは、つい酒が過ぎてしまったようだ。
テラスに場所を移し、フルーツをつまみながら食後の酒を楽しむことになったが、朝からの
緊張から解放された為に少し眠くなってしまった。
アテナはそんなフェリスの様子を知りつつも彼女に語りかける。
「フェリス。あなた、ニケとアテナの関係をご存じ?」
眠たい頭でフェリスは考えた。
アテナはニケから産まれる。
それ以外の事について彼女は知らなかったし、今の状態ではこれ以上の答えを見つける
ことができず、アテナの問いにその事だけを告げた。
「そう。アテナとニケはまるで鎖につながれている様なもの。ニケがいなければアテナは産まれない。
逆にアテナが産まれなければニケも産まれないの」
先程まで朗らかに微笑みながらお喋りしていたものとは明らかに違うトーンでアテナは言う。
それに対するフェリスからのリアクションはもう無かった。おそらく、夢うつつにアテナの声を
聞いているのだろう。
しかし、アテナは言葉を続ける。まるで夜の星々に語りかけるように。




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