「アニヴァーサリー」 1


ふと、上げた視線の先に何時もの朝を迎えている、その顔があった。
習慣になっているのか、コーヒーカップを片手に、もう一方の手には
今日の朝刊。足を組んでゆったりとした姿勢で眼を通してる姿に
フェリスは僅かに頬を染め、視線を外す。
彼女の態度に、シュラは新聞から眼を外し、彼女に伺うような
視線を投げた。
「どうした?」
何か言いたげな、その彼女の態度にシュラは首を傾げる。
「え?・・・あ〜、別に何でもない・・・」
苦しげな乾いた笑いを残し、彼女はダイニングテーブルに設けられた
椅子から立ち上がった。
食事の済んだ自分の皿を手に持ち、流しに運びそれらを洗い始める。
「あ・・・ねぇ〜後で街に行ってイイ?」
彼に背を向けたままで、フェリスは食器を洗う手を休めず、テーブルの椅子
に座っているであろう、シュラに告げる。
だが、返ってきた返事が、自分の直ぐ真後ろでしたものだから、フェリスは
驚いて持っていたグラスを落っことし、派手にそれを砕け散らせてしまった。
その様子に彼女の背後に立ったシュラはため息をつく。
「また割った・・・」
「お、嚇かさないでよ!」
赤面して、黙ったまま、フェリスは自分の後ろに立った彼を思いっきり
批難した。
「別に嚇かしたつもりはないよ。ハイ、ごちそうさん」
そう言って彼は自分が手にしていた汚れた食器を彼女に渡した。
「ああ、そうだ。街に行くなら俺も行くか?どうせ買い物なんだろ?
だったら荷物持ちがいた方が・・・」
そこまで言いかけた彼の言葉を遮り、フェリスは歓喜の表情で後ろを
振り返った。
「ホントに?」
「まぁ、これも亭主の務めかと思いますんで〜」
惚けた声で彼は彼女に言った。
「ありがとう!」
笑顔を湛えた素直な彼女の言葉に、シュラもつられて微笑む。
全ての後片付けを済ませ、ふたりが磨羯宮の私室を出たのは、きっかり
一時間後であった。
普段着に身を包み、楽しげに会話を弾ませながら、シュラとフェリスは
アテネの街のバザールを闊歩していた。
「そこの若奥さん!新鮮なオレンジだよ!安くしておくから買っていきなよ!」
不意に掛けられた露天商の主の声に、フェリスは頬を染めた。
「奥さん、だって・・・私たち、ちゃんと夫婦に見えるんだ。」
そう呟き、傍らのシュラに視線を投げる彼女に、彼もやや照れくさそうな
表情を漂わせた。
「別に否定することじゃないだろう? ホントのことだ。」
そのシュラのセリフを聞いて、フェリスは照れを隠す為にシュラの背を
思いっきり叩く。
その弾みでシュラが僅かにつんのめるのに、彼女は恥ずかしそうに両手で
顔を被った。
店主の言葉につられ、ふたりはオレンジを一袋購入する。
勿論、その袋はシュラが受け取り、買い物に同行した役割を果たす
こととなった。
「オレンジ好き〜」
フェリスの言葉に、シュラは苦笑を漏らした。
「果実は嫌いじゃないけど、この前みたいに食った皮、風呂に投げ込むなよ!」
「あら、オレンジの皮ってお肌にイイのよ!」
「俺は生ゴミと一緒に風呂に入る趣味はない!」
「別にそのまま入れてる訳じゃないじゃない!ちゃんと穴開きの袋にいれて・・・」
「同じだ、ちゅうの!!」
通りを歩きながら、軽い口喧嘩をしながら歩を進めるふたりは、周囲の視線が
自分たちに集まってるのに、はっと気がつくと、慌ててその場を逃げ出した。
その場からそそくさと退散したふたりは、大通りのブティック街へと踏み込む。
時期も時期だけに、早々と春物の新作の服がウィンドウに陳列されているのに、
フェリスは眼を輝かせた。
「買わないぞ!」
止めを刺すように、背後からシュラの無常な声が響くのに、フェリスは顔を
曇らせた。
「ケチ!」
「冬にコート買ってやっただろ!」
「季節が変われば服だって変わるわ!」
「聖域にいる時は長衣なんだから必要ない!」
シュラに突っ込まれ、フェリスは頬を膨らませる。
だが、財布の紐を握っているのは、今は紛れもなく、目の前の男なので、フェリスは
渋々その場を離れた。
通りを歩きながら、フェリスは口火を切った。場の空気を変える為にも必要だったから。
「もう直ぐ誕生日だね。プレゼント・・・何か欲しい物ある?」
「別に〜。人間二十歳越えれば祝ってもらっても嬉しくない。」
「捻くれもん!!」
「小学生じゃないんだぞ。」
「だって、折角のお祝いなのに・・・」
「気持ちだけで充分だよ。」
そう言って、シュラは苦笑した。
フェリスがこの買い物に彼を連れ出したもうひとつの目的。
それはシュラが欲しいというモノを誕生日プレゼントとして買いたいが為だったのだ。
勝手に自分で決めて、彼の好まないものは渡したくなかったからに他ならないのだが。
いかんせん、当の本人は自分の誕生日など、毛ほども関心がない有様にフェリスは
ため息をついた。
先を歩くシュラに、がっくりと力の抜けた肩でフェリスはトボトボと後を追った。
石畳の道を歩きながら、不意に眼に止るソレに、彼女の瞳は釘付けになった。
ショーウィンドウに飾られた手首だけのマネキン。
まるで男女が片手を絡ませあっているようにディスプレイされている、その薬指には
プラチナのリングが光っていた。
フェリスの左の薬指には勿論、シュラと初めて夜を過ごした日、彼が自分を妻として
認めてくれた証のリングが輝いていた。
が、シュラは自分の立場も含め、聖衣を纏う時、邪魔になるし、外してうっかり無くす
事を恐れ、その指に指輪を嵌めることを躊躇っているのに、フェリスは時々複雑な
気持ちを抱えてしまうことがあった。
勿論、互いの関係など、指輪で計るものなどではないのだが、自分の女心の気持ちを
考えれば、当然、彼に嵌めてもらいたい、という欲求があっても不思議ではない。
だが、本来、指輪というのは男が女に贈るものであって、女が男に渡すなど、
どう考えても可笑しい。
アクセサリー関係は却下ね〜と、彼女はまた深くため息をつく。
「フェリス!!何やってんだ!置いていくぞ!」
遥か彼方からシュラの自分を呼ぶ声に、彼女は未練を残したまま、その場から
離れトボトボと歩を進めたのだった。