12宮の下る階段を小さな女の子の姿が行ったり来たりしている。
場所は調度、磨羯宮と人馬宮との間。
どうやらひとり遊びのようだ、女の子はステップを踏むように
軽やかに跳んだり、撥ねたりを繰り返していた。
ふと、見下ろすと下階の方向から買い物袋を抱えた女性の姿を
見つけ、喜びの表情を作る。
「ママ!!」
その声に顔を上げ、ママ、と呼ばれたフェリスが顔を上げる。
「こんな所で遊んでたらダメじゃない、今日はパパにスペイン語
習う日じゃなかったの?」
「パパなら居眠りしてるよ。なんか教材に使ったビデオが詰まんない、
って言って。」
その愛娘の言葉にフェリスは眉根を寄せた。
「・・・またなの?」
ズンズンと、足音も荒々しく、磨羯宮への階段を登っていくと、フェリスは
乱暴に私室の扉を開け放つ。
「シュラッッ!!」
怒りの声を上げ、フェリスは自分の夫の名を大声で呼んだ。
「うわわわッッ!!」
その声に驚き、シュラは寝そべっていたソファから転げ落ちた。
「・・・やぁ・・・フェリス・・・随分早かったんだな・・・買い物・・・」
たどたどしく、シュラは焦った表情で愛妻の顔を伺うように視線を
投げた。
「少しは責任持ってよね!自分でアテナにスペイン語教える、って
言い出したの、忘れたとは言わせないわよ!!」
「わ、解ってるよ〜 そんなキーキー言うなよ、シワ増えるぞ・・・」
「なんですって!!?」
「いえ、なんにも・・・」
そのけたたましい、口喧嘩・・・もっともこれは喧嘩というよりはかなり一方的
ではあるが・・・の中、居間に入ってきた女の子は毎度のパターンにやや
呆れた表情をしていた。
大きな両の瞳は父親譲りの紫紺、髪の色は母親譲りのプラチナブロンドの
少女。今年で7歳になったばかりのシュラとフェリスのひとり娘アテナである。
「私、デッちゃんトコに行ってくるね。今日イタリア語もある日だから」
「え?・・・あ、きょうつけてね。」
フェリスは慌てて愛娘の方を振り返り、言葉を紡ぐ。
アテナはノートと筆記用具を、猫のアップリケが付いた手提げに詰め込むと
私室を出ていった。
親よりもしっかりしている娘の態度に、シュラもフェリスも赤面しながら口を
噤んだ。
ふたりの間に一粒種のアテナを授かり、結婚をしてから月日は早いもので
8年が過ぎようとしていたが、こんな事は例外で、子供が産まれてからも
二人の仲は睦ましく、幸せな家族絵そのままの風景を醸し出している。
そんなふたりに今は新しい問題が持ち上がっていた。
ある日の娘の言葉に、話題が一気に変わってしまった事に。
「・・・パパ・・・ママ・・・私、学校に行ってみたい・・・」
との、言葉だった。
聖域という特殊な環境、そして父親は聖闘士の最高峰を占めるウチのひとり
黄金聖闘士、母親はニケの転生の役割を担った女性、と血筋だって普通の
一般家庭とは尽くかけ離れてるが故、アテナは聖域からは一歩も出たことは
なく、しかも行動範囲も限定され、偶にコロッセオや訓練所の方まで足を伸ばした
ところで、同い年の子供達は、自分の将来を賭けての命がけの訓練に励む
子供達ばかりだ。
うっかり遊びになど興じていたら、聖闘士になるどころか、上手くて雑兵に転落、
下手をすれば死に直面すらしてしまうかも知れない。
そんな子供達に声を掛けるなど、アテナには出来るはずもなく、唯岩影から
その風景を眺めるだけの無為な日々が数多くあった。
当然、一人っ子の彼女には同い年の友達はなく、その事を口に出さずとも
彼女が寂しさを抱えているのは両親である、シュラもフェリスも解ってはいたが、
ふたりめの子供の誕生を、夫婦揃って願っていたにも関わらず、努力・・・
それもかなり・・・してはいるものの、フェリスには未だ妊娠の兆項は見られない。
そんな訳で、自然にアテナの周りには大人だけに囲まれた隔離された独特な
世界観が出来上がってしまってるわけで。
だが、12宮に存在する黄金たちも手放しでアテナを放ってなどおかない。
各々が、その個人の知識を生かし、アテナにその知識を分け与え、結果、
僅か7歳にして秀才レベルの知識を身に付ける事となったのだ。
ムウは現教皇の補佐をサガやアイオロスと共に引き受ける立場なので、
経済学や地理を。アルデバランは聖闘士候補たちの訓練の合間を縫って、
基礎体力や柔軟運動、デスマスクは自分の母国であるイタリアの会話、そして
文法、筆記を教え。サガは教皇補佐のその力を活かし、アテナの将来を
期待して帝王学を教えた。
今は現アテナの許しを得て、双児宮で一緒にサガと暮らしてるカノンに至っては、
何故か現代の利器であるパソコンに長けており、プラスアルファー海底神殿に
居た頃に習い覚えたフルートを教えていた。
アイオリアは、ともすれば独りの寂しさに塞ぎがちになってしまうアテナの
良き相談相手となり、ギリシャに伝わる様々な伝統を聞き教え、豊富な知識
を惜しみなくアテナに与えた。
シャカは仏陀の教えを説き、愛をもって世界を統治することを教え、そして
インドは長い間、イギリスの統治下にあった影響で使われてる英語と現地の言葉
ヒンドゥ語を。
五老峰の老師はシュラが連れて行っての通い塾として一週間に一回、漢文と
中国語を教え、カミュはフランス語とロシア語を教えた。
だが、これに限っては時々、ミロの邪魔が入るので授業が思うように進まず、
やや遅れ気味ではあったが。
そして、父親であるシュラは母国スペインの言葉を、とは思っていたのだが、
これもややサボり気味な為か思うようにはいってはいなかった。
さて、残るはアフロディーテ、アイオロスであるが、アイオロスは実弟、アイオリア
とやる事も方針も一緒なので割愛、アフロに至っては、子供は嫌いと、歯牙にも
掛けず、無視の状態だったが、それには根の深い感情が絡まっている、という
のを知る者は極少数であった。
その感情とは、アフロディーテのシュラに対する感情的な絡みで、何時かはこの
お話も書く日がくるだろうが、今回は敢えて伏せておこう。
そんな訳で、アテナの知識は小学生レベルを遥かに上回る事となる。
が、当人に今一番必要、かつ、欲しているのが同年代の友人であった。
当然、幼稚園なども通わせてはいないのだが、レベルがこれだけ高水準で
あれば、万が一、学校、ということになっても何も問題はないのだったが。
聖域を出したことのない幼い娘に、両親としての立場である、シュラとフェリスは
感情的に別の不安を持っていたのだ。
しかし、可愛い一人娘の願い、ともなれば無碍にも出来ず、お試し期間くらい
は通わせ様子をみてはどうだろう、という意見で話し合いは終わったのだった。